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今もなお解けないアレッポ写本のミステリー 1 


はじめに
2012年に、フリードマン氏のアレッポ写本に関する記事を翻訳したが、昨年の末、私も会員となっているニューヨーク・スポーツ・クラブ(NYSC)で出会った、私と同年輩の婦人と話しをした。彼女は、自分の名はノラだという。他人の名前を覚えるのが苦手な私は、「人形の家」(ノルウェーのイプセン作戯曲の女主人公)と結びつけて覚えたのだが、実際は、彼女はユダヤ人で、例年イスラエルに行くのだといった。
その時、私はアレッポ•コデックスの話しを振ってみた。彼女は「面白そうな話しね」と返したので私は、その日すぐ彼女に、NYタイムスの記事をPDFで送った。すると、彼女からは、すぐに連絡があり、あの記事の続きが出ている、と教えてもらったのが今回の原稿である。ひょんなところから、ユダヤ教(キリスト教の元根でもある)や、イスラエルについて興味を覚えたので、この第二稿を訳すことに決めた。(ボケ防止でもあるので、一石二鳥。)

ある点、イスラエルという国と政治家、金融、などで、世界の陰謀説には必ずでてくるユダヤ・シンジケートの一側面を覗く機会となった。ご興味のある方には、原文(英語)をお送りします。(宮平順子 2016年4月23日記)

今もなお解けないアレッポ写本のミステリーのその後 (1)
マッティ・フリードマン
2014年6月30日 (www.tabletmag.com)

長らく忘れ去られていたアレッポ写本に関わる話、ヘブライ語の聖書(旧約)の正統な写本について2012年に私が出版した話(こちら)が、かくも長い間、私を論争に巻きこむことになってしまったことについて、私自身、予想もしていなかったと言わねばならない。ジャーナリストの端くれとしては、通常、一つのテーマで仕事をすれば、次には全く別のテーマに移るものと思っていたのだ。ところが、時には運命のごとく、その仕事自体が、一人歩きを始めてしまったのだ。私が書いた本が元となって、写本に忠実でありたいという熱意にあふれた少数の師弟達(最も若いのは36歳、これは私、最高齢者は82歳で、元モサドの担当官ラフィ・サットン氏)が勢いを得たこと、同時にNYの高名なラビ(ユダヤ司教)が、私を相手取って非難通達を発行したことが発端だった。手短にいえば、アレッポ写本は、過去の何世紀にもわたって密かに眠っていた時代よりも、現在のほうが、よほど活発に生きている、と言えよう。そこで、世界に存在する最も貴重な資料の一つをめぐって、過去2年にわたって起こったことを正確に記すことは、写本ファン、写本マニアに取っても意味のあることとなるだろうと考えたのである。

アレッポ写本

先ず、この話を始めて読む読者の方々のために、過去の背景を簡単に記そう。アレッポ写本とは、約500枚の鞣皮の写本ページの集大成で、ティベリウスによって紀元930年位に集大成された写本で、世に知られる旧約聖書の最も古い完成文書である。これは、十字軍によって1099年にエルサレムに持ち去られたが、エジプトのカイロでユダヤ教徒に買い戻された。それからマイモニデス(ユダヤ教思想家)の編集を経てユダヤ教典の最も明晰で忠実である最高写本とされた。その集大成は、シリアのアレッポに移され、6世紀の間、厳重に護られてきたのである。「アレッポの宝冠」と呼ばれて。

1947年、国連決議で、パレスティナ分割が決まり、その後の動乱の間に、写本は姿を消したが、10年後、なんとも不思議な状況で、新興国イスラエルで姿を現したのである。写本は現在、イスラエル博物館にあり、死海の書(巻物)と同じ建物に収められている。ただし、博物館の管理下にはなく、ベン・ズヴィ館(イスラエルの2代目大統領ベン・ズヴィの名を冠した学究的研究所)の管理下にある。

20世紀半ばに、200枚もの写本頁が、全体の40%にもあたる部分が消え去った。その中には、最も重要といわれるトーラー、モーゼ五書も入っている。

写本をめぐるミステリーは2種類だ。まず、アレッポの大シナゴーグの奥深くの秘匿所から、イスラエルまで、どうやって運ばれ、新興国の所有物となったのか?
そして、失われた部分写本は、どうやって失われ、あるとしたら、どこに?

まづ第一のミステリーについて、研究所が50年間言い続け、そのように受け入れられてきた説明は、写本は、アレッポのユダヤ社会から、新国イスラエルに贈与された、というものである。だが私の調べでは、実際はそうではなかった。実際には、写本はシリアからトルコへと、洗濯機の中に隠されて持ち出され、その後、新国イスラエルのエージェントが、それを盗み新国側に渡したというものである。写本がイスラエルに届いた時、アレッポのユダヤ人集団とイスラエル国のユダヤ人は法廷闘争を繰り広げた。この法廷闘争は、政府要人を含んだ醜聞とされ、裁判の内容は、公表されなかった。法廷記録は外部には報道されず、1958年の決裁時以後出版禁止とされ、ついに禁止が解かれることはなかった。私が本を出版したのは、54年後のことである。

二番目のミステリー、紛失した写本鞣皮は、どこへ?については、聖書研究者、アレッポからの逃難民など小さなサークルの中では、有名な話である。イスラエルで、写本を管理している研究者や役人の表向きの説明では、写本の多くは、1947年のアレッポ騒乱時に紛失したと言われている。だが、我々の調べでは、騒乱の5年後の1952年くらいまでは、実際に存在していた。写本の紛失が目立って知られたのは、写本がエルサレムのベンズヴィ研究所に届いてから、1958年以後のことだった。

私の調べでは、写本が紛失したと同じ頃、何十冊という貴重本や、原稿も、同じ研究所から消え去った。私が研究所の元職員に、他の紛失した本や原稿写本の証拠書類を見せて、問いただしたところ、数人が、それらの消失の原因は、当時の館長、メイア・ベナヤフである、と証言した。ベナヤフ氏は写本の研究者で、長い間、輝かしい経歴を持ち、ヘブライの古書、文献を蒐集し、売買もしていた。彼は、1970年の研究所の管理をめぐる法的係争の最中に、研究所を辞めた。

ベナヤフ氏は、2009年に死亡したが、彼はイラク出身の有力者の家系の人である。彼自身は、セファド派のラビ、イツザック・ニッシムの息子で、リクド内閣の高官モシェ・ニッシムとは兄弟である。(当時としては当たり前だが、ベナヤフ氏は、イスラエルらしい、モダンな苗字を選んだようだ。)このスキャンダルは、イスラエルの小さな研究者グループの中ではよく知られていたが、外部には、漏らされなかった。当時のイスラエル大統領、ザルマン・シャザールの直接介入で、法廷闘争は避けられ、警察は呼ばれず、検挙もされず、本も返還されなかった。ベナヤフの家族は、犯行を否認し、真犯人のデッチあげキャンペーンだろう、と述べた。実際、彼らは何故だれも警察に届けなかったのか、と理にかなった質問もした。現在、ベナヤフ氏の家族は、ヘブライ語の文献の個人所蔵としては、最大のコレクションを持っている。

ベン・ズヴィ研究所で、実際に何が起きたのか、研究所から消えた原稿や本はどこへ行ったのか、消えた写本のページと、関わりがあったのかどうかは、間違いなくイスラエルの学会の歴史で、最悪のスキャンダルになるだろう。証人として、ベナヤフの名を指名して稀本の紛失の責任を指摘したのは、ズヴィ・ザマレット、また研究所の上級管理官で長年研究所に勤務し、その後イスラエルの教育庁のトップとなったヨーゼフ・ハッカー、ヘブライ大学の名誉教授で、研究所の前副館長、そして、亡くなったヨム・トヴ・アシス、ベンズヴィ研究所の統括者、私が調査した時の館長である。

失われた写本とベンズヴィ研究所から紛失した古写本と関わりはあるのだろうか?ベン・ズヴィ研究所の学者達は、疑惑を払い除けようとしながらも、徹底検証には抵抗している。

チーズ商人

写本のミステリーの中心はシリアのアレッポのユダヤ人社会にある。今日、アレッポに留まっているユダヤ人はいないが、ユダヤ系シリア難民の最大の移転先は、NYのブルックリンであり、また、NJ州のディールであり、北米中部、南部にも散らばっている。アレッポ出身のユダヤ人とその子孫のコミュニティーほど写本の話に強い反応を示したところは無い。本を出版してほどなく、私に連絡を取ってきたのは、そのコミュニティーからで、ディールのユダヤ人の私宅で催される読書クラブに出席を要請してきたが、それには70人位の人があつまり、議論は白熱した。同じ頃、シリアの出身者で高名な人の名誉を傷つける、という理由で、私の本を読まないように、というEメールも回覧された。

なかでも重要人物とされたのは、ムラッド・ファハム氏で、アレッポのチーズ商人で、命を懸けて写本をシリアからトルコに持ち出し、1957年にはイスラエルに運んだ人だった。イスラエルに到着した時、彼はイスラエル国の役人に写本を渡したのだった。(ファハム氏は、フラットブッシュ(訳注:ブルックリンのユダヤ人地域)で余生を過ごしたが、そこでは彼は写本の移動で重要な役割を果たした人と認識されていた。彼は1982年に死亡。)ベン・ズヴィ研究所の研究員や、ファハム氏とその子孫の公式見解として知られているのは、チーズ業者は、アレッポの二人の高官ラビの指示に従って、写本をイスラエル国家に委譲した、というものである。ベン・ズヴィ研究所(恐らくイスラエルでの最高教育機関でヘブライ大学と連携している研究所)は、1985年に写本の正史を出版したが、学者達は、それが事実とは異なることを識りながら「正史」に異論を唱えなかった。

裁判の証言記録によれば、実際にはアレッポの高官ラビは、ファハムに写本をイスラエルに運び、それを政府ではなく、イスラエルに在住するアレッポ出身のイザック・ダヤンという名の高官ラビに渡すように、と指示したのである。だが新国家の役人の圧力を受けて、ファハムは、最初に与えられた指示に背き、そのため、ユダヤ社会は、最も重要な写本の所有権を失ってしまったのである。

私の本は、書類の写しを含んでいなかった為、私がそうした話を作りあげたのではないかとの疑いを呼んだ。そこで、今回、私は、1960年3月1日の裁判証言記録をのせ、二人のラビの証言を含めたのである。(写しは次号)

「トラーの宝冠は、アレッポ社会に捧げられ、所有されるものであり、何人もそれを替えてはならない。我々は、写本を一人の男に託し、かれはその使命を裏切った。」と、二人の高官ラビの一人、モッシェ・タウィル師は、法廷で証言した。「もしラビ・ダヤンがイスラエルに住んでいなかったなら、我々の宝冠を持ち出すことは絶対にしなかったであろう。」と。

「我々は、写本をラビ・イザック・ダヤンに渡すべく、ファハム氏に委託したのである。」と二人目の証人ラビ・サリム・ザーフラニ師は述べた。「我々は、他の誰にも絶対渡してはならないと指示し、それ以外の行為は許可していない。。。写本は、アレッポ社会に属すもので、イスラエル国にではない。」

この話の核心と異論の疑義は、イスラエルに写本を送ったアレッポのユダヤ人が、最終地をどこと意図したのか、である。疑義のある人にとって、この書類写しは、確固たる証拠ではないだろうか。(以下次号)

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