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ハイ・ブリッジ再開ーもう一つの橋 

High Bridge


3ヶ月ほど前のブログで、ジョージ・ワシントン・ブリッジ(GWB)を歩いて渡ったという話を載せたが、実は、それを書いたのは、昨年の夏、もう一つの橋、40年間閉じられた「忘れ去られた橋」が、再開した、という記事を読んで、その内容に触発されたからだった。

この「忘れられた橋」は、ハイ・ブリッジと呼ばれたが、橋のかけられた歴史もGWBとは大分異なる。試しに、グーグルで、地図(マップ)で、ハイ・ブリッジと入れると、確かに、その辺りの地図はでてくるのだが、橋自体のルートは、マップには見当たらない。ところが、である。サテライトから見たマップに変えたら、あら不思議、ちゃんと橋の在りどころが判るではないか。マップで、何故この橋が載らないのか?理由は恐らく、自動車が走らない橋だから、だろう。

実際、この日曜日に、現場に行ってわかったのだが、本来、自動車が、走らない・走れない、つまり、徒歩か自転車に限ることを前提に出来た橋である。(ジョージ・ワシントン・ブリッジの車道の脇に、遠慮しながら細々とついている自転車・徒歩用の通路が、車無しのハイ・ブリッジだと広く立派になるのだ、と理解した。)

通常、橋は、人的・物的輸送の手段として当然輸送車両は想定されるのだが、この橋は違う。そもそも成り立ちからして、橋が架けられたのは、ローマ帝国同様、水道としてであったのだ。だから、元の名は、クロトン水道橋つまり、マンハッタン島住民の使う水を、北のクロトン河地域から引いてきたので、だから、元の橋の姿は、ローマの上下水道橋と同じような姿であった。私は、当初の橋の姿を写真で見た時、ローマの水道橋の真似をして、旅行者を呼びよせようと思ったのか、と、カン違いをしたのだが、文字通り、水を供給してくれる橋(アクアダクト)が欲しかったのだ。1832年にNY市がコレラに襲われ、また有名な1835年のチャイナタウンの大火にさらされた時、良質の水不足が深く認識されたということもあったといわれる。
当時は、マンハッタンは全米でも有数の急激に発展した都市として全国に知られていたのだ。

最初に橋が架かったのは1848年だった。当時クロトン河から10マイル南のNYの活況で、水が大量に不足していたのである。橋は全長600メートル。設計は、ジョン・B・ジャーヴィス氏とジェームズ・レンウィック Jr.氏 のチーム。(このレンウィック Jr.氏はその後、マンハッタン五番街の聖パトリック寺院の設計チームの一員ともなった。)

クロトン水道橋は、ハーレム河をいずれかの地点で越える必要があった。当初川底にトンネルを掘ることが考えられたが、当時の技術では、不十分とされ、案は否決された。水道局としては、高架橋か、低架橋かを決めることとなった。当初は、低架橋が簡単で、速く安価に架設できると論議されたが、NY議会は、低架橋の場合ハーレム河からハドソン河へ運行する船舶にとって高さ制限がマイナスになる、と主張し、最終的には、高架橋が選択されたという。

時は流れ、1928年(大恐慌の直前)ハーレム河の運行を促進するため(大きめの船舶も通れるようにと)、橋全域の内、石積みのアーチ5脚が取り払われ、河のほとんどは、スチールのアーチ式高架橋(140m)のみとなった。1848年竣工の石積みアーチは、マンハッタン河に一脚、ブロンクス河に10脚残っている。だから、橋は元どおりのローマ式アクアダクトではなく、スチールとアクアダクトの混ぜ合わせのような,奇妙な橋となった。(上写真)

こうして、アクアダクトを確保したのだが実際に飲料水の供給目的は、スチール橋への建設手直しにもかかわらず、時代の要請で、1949年末までだったという。時代は変わったのだ。
(実際にいつまで、どのような形で上水道としての役割を果たしたのかについては、諸説あるので、詳細は不明である。資料によりマチマチだ。)

1954年には、水・ガス・電気の供給施設事業監督庁長官が、この水道橋の補修・傷みが激しいと警告を発したとNYタイムスが報道し、当時、NY市の都市計画を仕切っていたロバート・モーゼズ氏も協力同意の上、1955年には、市緑地公園課に移譲された。1957−58年には、橋の上から下を通過する観光船客を目掛けて棒や石を投げつける事件も起き、その内の一件は、マンハッタン島巡りの名物、サークル・ラインの乗客に怪我をさせる事件も発生。1960年から70年にかけて、経済環境の劣悪化と犯罪増加が祟り、1970年前後には、橋は封鎖された。 

今世紀に入って、2006年11月に、公園緑地課は、徒歩者のためにハイブリッジを再開する、と発表。NY市の共同組織が寄付を募り、ハイ・ブリッジの過去の栄光をもう一度と、声をかけ、マンハッタンとブロンクスの両区が管理する二つのハイ・ブリッジ公園課に呼びかけた。両方あわせれば、120エーカーの土地があるのだ。2010年リヒテンシュタイン建設技術会社とチュウ・ガスマン技術社と市との契約が交わされ、復元設計案をだすこととなった。

2013年1月に市長(当時ブルンバーグ氏)は、橋の再開は2014年になると、発表。だが、2014年の8月に(現市長デブラシオ氏)は、2015年の春と、発表した。2015年5月に公園緑地課は7月に再開し、7月25日を祝祭日、と発表。実際には、同年6月9日にテープ・カットを行い、同日正午に、橋は一般公開となった。

古いものをいつまで、どんな風に残すべきか、別のものに改築するのか、いつの世にも去る方法、新しいものを取り入れる方法、ともにせめぎあうものだ。この日曜日に行って、歩いてみたのだが、橋の両側には、金網がしっかりかけてあり、その向こうにハーレム河の緑色をした濁った水が静かに流れ淀んでいた。これが、1910年には、紳士・淑女がそぞろ歩き、水の澄んだ河では、ボートレースが競い合い、楽隊も演奏したかもしれない、と想像しながら歩くのは楽しかったが、金網の向こうの緑の川面を見た時、「金網無しでも、この河には、飛び込む気にはならないなぁ」と心底おもった。尤も金網は落石防ぎの為とは判っているのだが。

 

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