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サウルの息子 

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サウルの息子

年の最後の月には、未来を信ずる、明るい話題が適している、とは思いながら、フィルム・フォラムの小さな映画館で、今月18日からアメリカ初上映となった、ハンガリー映画、「サウルの息子(Son of Saul)」の印象が強烈であったことと、昨今のISISを巡る、シリア、ロシア、アメリカ、トルコを始めとする、多国間の戦闘と流血とがネットの映像で日々迫ってきて、映画とダブルになってしまったため、今年最後のブログは、後ろ向きの内容となってしまった。

この映画「サウルの息子」は、ハンガリーの監督ラズロ・ネメスの作品である。この人の映画は、見たことがなかった。映画が始まる直前の暗闇から、スクリーンに映る(と思っていた)映像は、なんだかボンヤリして、一瞬、映画館の上映技師のミスか、と思ったら、すぐに、シャープな映像に結びつき、それは、壮年の男の眼を通しての映像にと、変わっていった。この男性が主役のサウルを演じるゲーザ・ローリッグ(Geza Rohrig)だ。映画出演は初めてだという。撮影中、ほとんど、この人の目線で、物事が動いていく。いわゆるハンサムではないが、精悍で、朴訥な田舎の人という印象だ。サウルの役は、この人以外では作れなかっただろう、と言う映画評論家の言葉もうなづける。

場所は、1944年、アウシュヴィッツの、ユダヤ人収容所だ。サウルはハンガリーのユダヤ人で、ドイツ軍の捕虜となり、ゾンダーコマンド(「特別任務隊員」)となった男である。捕虜でありながら、ユダヤ人抹殺の行為では、ドイツ軍の「最終処理」の肩棒を担がされている立場にある。ただの囚人との違いは、上着の背中に大きくXが書いてあることでコマンドだと分かる。 

貨車で到着したユダヤ人に、「さあ、荷物は皆ここに置いて」、「早くシャワーを浴びなさい」、「そしたら、お茶の時間だよ。」「そのあと、ゆっくり食事だからね。」という誘導の言葉が掛けられる。ユダヤ人の群れは、次々ガス室に入っていく。多くのピンク色の裸体が、ボンヤリと動いていく。なぜ、映像で、サウル以外は、ピンぼけにしたのかが、これで理解できた。もし、シャープな映像であったら、おそらく、観客のほとんどは、正視に堪えられないだろうからだと。

部屋のドアが閉まるや、中の人達が、ドアや壁をガンガン叩き始めるのが音でわかる。サウル達コマンドは、その「処理」の間、彼らの残していったトランク、衣類、貴金属、メガネ、靴などを集めて、仕分けする。「処理時間」終了後、ユダヤ人の屍体は、サウルとその仲間によって、ガス室から、掻き出され、トロッコに移されて、大きなプールのような、穴場に「移動」されるのである。サウル達は、部屋の床を水洗いして、空気を入れ替え、次の「処理」の準備をする。

特別任務隊員も、いずれは同じ運命が待っているのは明らかだ。ドイツ軍の将校の意に沿わなければ、将校の指一本で、撃ち殺される運命にある。特別任務をしている間のみの命だから。代わりに、サウル達は、仕分けされた遺物の内、時計とか指輪などをこっそり抜きだして、将校への賄賂に使ったりすることもある。物流の経済は、こんなところでも幅を利かせている。

そうしたある日、サウルは、瀕死の少年の裸体に気づく。10歳ほどの少年はガス室から掻き出された時は、まだ息があった。その子を見たサウルは、それが、妻と結婚する前に付き合っていた女に産ませた息子である、と気づく。サウルは息子を救おうと、日頃好意的な軍医に頼むが、少年を一目見た軍医は、サウルに、夜戻ってきなさい。特別に5分だけ別れの時間を与えよう、と言う。事態を悟ったサウルは、特別任務隊員の仲間にせめてもユダヤ教のラビ(司祭)に看取ってもらえないかと、相談するが、「やめておけ。見つかったら、遺体は解剖実験にされるだけだから。」と言われる。その夜、息子は、息を引き取った。サウルは、息子の亡骸を布に包んで、こっそり部屋から持ち出し宿舎に隠し、ならばせめても、ユダヤ人として正式の葬礼をしてやりたいと、仲間に、囚人の中にラビがいるかどうか探って欲しいと伝える。その間も、ユダヤ人は、間断なく列車で到着し、サウル達は、「処理」の効率を上げるように、という指示を受ける。サウルと仲間は、密かに脱走を企てる。

新たに到着した貨物列車には、ラビがいた。サウルは、剃刀で、ラビの髭を刈り取り、一般人の服を着せ、息子の埋葬を依頼する。ラビを含んだ脱走者は、その晩山越えをし、河を渡るが、その時、サウルの息子の亡骸は河に流されてしまう。ようやく追手と猟犬を逃れたサウル達は、向い岸の農場の一画にある仮小屋に潜り込んだ。明日はパルチザンと合流して、ドイツ人と戦うのだ、と話し合う。そこに農場の少年が、戸口に現れる。死んだ息子と同年配の子供に微笑みかけるサウル。だが。。。

という話で、見ている側には悲劇の結末は初めから判っているのだが、極限状況下にある人々の心理、状況によらず、個々の人間の崇高さ、そして、同じ人間でありながら、平然と銃を向ける人々。そうした人間社会の不条理が、ある意味既成のストーリーの展開となる。せめてもサウルが子供に見せた笑顔に私達は慰めを見出すことしかできないのかもしれない。

2016年が、理知と平安の年となりますように、と、祈ります。

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