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今もなお解けないアレッポ写本のミステリー 2 

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館長

今年の1月、イスラエルのジャーナリスト、イィファット・アーリックが、マーリヴ紙とマコー・リション紙という新聞に私の疑念を追った調査記事を載せた。彼女は、ベン・ズヴィ研究所の前館長であったベナヤフに焦点をあてた。小部屋に隠された白骨を嗅ぎ回っているもう一人の新手の記者を前にして、研究所は、私には見せてくれなかったファイルのいくつかを彼女に見せたという。だが、ベナヤフ自身に関するファイルは見せなかった。研究所の言い分は、「内輪のメモ」とか、個人情報の漏洩になるようなものは、法律上、一切見せる必要はないというものだった。これは2012年5月に発行されたエディオット・アーロノット誌の記事で、紹介された別のジャーナリストが私の本に関連して調査し、確認した「消失した原稿や写本について、ベン・ズヴィ研究所と1970年に研究所を辞めた職員との間におこった(歯に絹着せていえば)重大な確執について、”この件についても研究所は真っ正直だったとは言えない。「辞めた職員」とは、ベナヤフで、彼は、実際研究所の創立館長で、当時のただ一人の管理人でもあったのだから。”と述べている。

ジョセフ・ハッカー氏は、私やアーリック記者に、前館長に向けられた疑惑について隠さず述べると約束してくれた学者で、前館長が去った時に持ち出したと思われる書籍・原稿のリストをみせてくれた。このリストは、アーリックや私が探していたものである(今でも現存すれば、だが)。しかしながら、このリストは一般公開はされていない。ハッカー氏は、アーリックに、自分は1960年代に稀刊本の一冊について調べていたのだが、数年後、ベナヤフ氏に、その写本は、実際には自分の蔵書で、研究目的でも見せてはいないのだ、と言われたと語った。研究所の所蔵書籍と館長の所蔵品の境は曖昧だったのは、明らかだったと。

アーリック記者はイスラエル国家古文書庫について極めて貴重な情報を得た(ベンズヴィ研究所が彼女の行動を規制できない限りにおいて)ことと、1970年頃に起きた研究所を巡る贈賄スキャンダルの詳細(大統領のみならず、ゴルダ・メーヤー首相も検察庁トップも巻き込んだ)では、リポーターのメモによれば、研究所館長ベナヤフは、彼の辞任を勧告した側に対し、公の機関ベンズヴィは、ベナヤフ個人の個人資産である、即ち研究所所蔵の写本原稿等は、彼の所有物であると法廷に訴えた。彼女のルポによれば、職を解かれた後、ベナヤフは許可なく研究所に入館し、新館長が鍵を変えた時は、鍵を壊して侵入し、その後は入館を防ぐ為にガードマンが雇われたという。

1970年の9月には、国の査察官の数えでは、ベンズヴィ図書館には8000冊の書籍と1992の古文書ぺージが存在したという。だが、ベナヤフが管理していた間、カタログ化されたのはその半分のみだったという。つまり、研究所に存在した書籍と紛失した書籍の全容は分からないということだ。

私同様アーリックは写本については、誰が犯人だとは、言っていない。ベナヤフと消えた写本をつなぐ証拠も無い。(1980年の半ば頃、エルサレムで、写本のぺージをバラして売っていたと噂されたディーラーは、その後まもなくホテルの一室で不審死をとげたが、ベナヤフの知人で、死ぬ少し前に会っていたとされるが、ヘブライ語の古書の世界は狭く、ディーラーも、、もお互いに知己であるので、事実は興味を引くが、それだけで有罪とすることはでき無い。)アーリックも1958年1月の末に、写本がベンズヴィ研究所と所長の手元に届く以前に写本の大きな部分が欠けていた、という情報や証拠は入手できなかった。ずっと後になって、200枚欠けていたことが分かったのだ。

トラー部分の紛失については、見逃すことができないし、世界で最も重要なユダヤ教の聖典の部分がアレッポ騒擾と写本がイスラエルに到着するまでの10年間、それを運搬した「学のある」ユダヤ人によって紛失したという記録は、どこにも無い。「どこにも記録が無い」写本が研究所に届けられる前は。紛失が明らかになるのはベナヤフの管理下である。

アーリックの論文は、写本紛失の探偵達によって新しく追加された新情報を加えている。写本がイスラエルに着いた時、最初にそれが手渡されたのは、イスラエル入国管理局長、シュロモ・ザルマン・シュラガイ氏の部署であった。入国管理局は、1958年1月に、写本を2週間ほど手元に置いた後、研究所に手渡した。従って、シュラガイ氏の証言は重要だ。教育を受けた人であったから、シュラガイ氏であれば、写本のぺージが多量に減っていれば、すぐ気づいたであろう。もし、既に欠落していたのであれば、ベンズヴィ研究所は、無実である。だが、もしもシュラガイ氏が見た時には欠落がなかったのであれば、ベンズヴィ研究所が紛失の責任を負う。

だが、シュラガイ氏は、何の証言も残していない。あるいは私も含めてアレッポ写本の探偵達は、それを見つけることができなかった。私は、それはどこかに存在していると信じている。証言では、どこかに存在している。だが今は、写本の「聖杯探し」である。

ただ、幸いシュラガイ氏の証言を聞いた人はいる。1993年にシュラガイ氏の死の直前に書き留められたものだ。元モサドの諜報員でイスラエルで放映されたTVドキュメンタリーの為に写本の調査を担当したラフィ・サットン氏である。サットン氏によれば、シュラガイ氏は、写本は、ほぼ完璧な状態で届いた、とのことであった。シュラガイ氏によれば、最後に見た後に、ぺージが減った、すなわち、ベンズヴィ研究所で。

私は、ラフィを良く知っており、信頼でき、記憶力も抜群だと思っているが、この情報は、私の本には含まなかった。何故なら、この会話を記録に残さなかったし、当時メモに書き留めることもしなかった。だが、私の本が出版されるや、内輪の「アレッポ写本地下組織」の組織長を務めるエズラ・カッシンが、シュラガイ氏の長男のオヴァディアをの所在を見つけた。オヴァディアは、シュラガイ氏が写本を持ち帰った1958年の夜、家にいた。彼は写本を見たのだ。ほんの数ぺージ以外は、トラーも写本のほとんどが、しっかり纏められていたという。この情報は、何年も前に、シュラガイ氏がそれに先立つ何年も前に当時の諜報員サットン氏が話した通りである。カッシンは、会話をテープに記録していた。

アーリックはこの新しい情報を新聞のルポ記事に追加した。これで、写本の紛失原因として、ベンズヴィ研究所に焦点を絞ることが出来る。一方、研究所は、写本が届いた時すでに消失部分があったという証拠を出すことはできなかった。その為研究所としては、のらりくらりとかわしながら、低姿勢を崩さず外部の興味と疑惑の関心が薄れるまで時間稼ぎをすることになった。(このアプローチは、政治家や軍組織の情報隠匿に似てはいるが、学問的歴史学に使用するには、あまり有効な手段では無い。)

ベンズヴィ研究所、ヘブライ大学、イスラエル博物館の3機関が合同して写本会議をするという企ては、今年、研究所側から、何ら新しい発見は無く議論すべき争点も無いから、という理由で、突然、一方的にキャンセルされ、学者・研究所を驚かせた。研究所の現館長であるメイア・バル・アッシャー教授にこの突然のキャンセルと、今月私から提出した質問点のリストについて連絡を取ると、研究所は、各界の学者達と協議したが、会議を開くに値する新しい点が無いので、という答えだった。私は、少なくとも写本の権威2名(バリラン大学のヨーセフ・オファー教授とヘブライ大学のラファエル・ゼル教授)は、会議を開く希望があり、キャンセルには反対であると話し、反対している教授の名前を尋ねた。(果たしてそうした教授がいるのかどうか、会議では研究所に焦点が当てられるのを危惧して、また、困った事態を避ける為ではないのかどうか?)館長教授は黙して語らなかった。

私の本の出版前に、私はベナヤフ氏の家族に、質問状を出したのだが、それに対し、ベナヤフ家から長い回答説明の書簡を受け取り、それを、私は本の一部に加えた。だが、その後、家族からは、一切の連絡が絶たれた。そして、アーリック記者が回答を求める文書を送ったところ、大層な反撃を受けた。家族は、今回は、家族の名誉はおろか、家族の蒐集資産が脅かされつつある、と、気づいたのだろう。

家族とのミーティングでは、とアーリック記者は語った、彼女は、チャナン・ベナヤフ(元館長の長男で現在はコレクションを管理している)のみならず、モッシェ・ニッシム(館長の弟で、前財務大臣で大きな法律事務所を経営している)、別の高名な弁護士が家族の依頼で出席、PRのプロが家族を援護、こうした人達が彼女と対峙した。アーリックは居心地の悪い会議をすべてテープに収めた。アーリック、編集者、出版社への論文出版撤回などの脅しは成功しなかった。ルポは今年の1月17日に出版された。アーリック記者のルポは、事実とは全く関係無い、と家族は返した。ルポの中身は、安っぽいゴシップ、作り話、小説、名誉毀損の集合である。馬鹿げた作り話、悪意と嫉妬に満ちた嘘と陰謀説の集大成である、と。攻撃は、アーリックの結論が無名の読者からの情報であると非難していた。実際には、主な情報源は、私の記事同様明らかにされていた。実際、ベンズヴィ研究所自体が、いやいやながら、事実を認めていたのである。

ベンズヴィ研究所の学者、歴史家達は、彼らの立場上アーリック記者には、典型的に逃げに回った回答をし、「盗み」には言及しなかったが、自分達のコレクションは、ここ40年は(言い換えれば、ベナヤフが辞めて以後は)、スムーズに増加していったという持って回った言い方で、自分たちの立場を正当化し、イスラエルの情報開示法の文言を盾に、全関連書類を開示することなくおさめた。

私が今月提出した質問について、現在の所長のバール・アシャー氏は、「研究所は、なにも隠してはいません」と強くいった。それに対して、私はむしろ研究所が、過去実際に写本・古文書を秘密裏に保管していたと認め、そうした行為は今後しないと政策変更すると発表する予定はありますかと、聞いた。所長はそれには答えなかった。そこで、私は、研究所はアレッポ写本について過去横領や疑惑は、一切なかったと断言出来るのか、またもしそうではないのなら、過去の調査を始め、事実を世に公表解明すべきではないのか、研究所は、個人経営ではなく学者組織として公的資金の提供を受け、東部ユダヤ教の文化資産を正しく記録し、後世に伝えるべきではないのか、と問うた。教授は無言のままだった。

シルヴェラ原稿

2010年に、私の本の為リサーチをするのでNYに居る間、私はセントラル・パーク近くのアレッポ・シナゴーグでモーリス・シルヴェラという人に会った。シルヴェラ氏は1961年に彼の父親がベンズヴィ研究所に贈与した貴重写本の部分の受領書二枚を見せてくれた。一つはベンズヴィ自身の署名があり、もう一つはベナヤフの署名であった。氏は、これが写本回復の一助になれば、と語った。

私は、この受領書をエルサレムに持ち帰り調べた結果、どちらも研究所には存在しなかった。だが、受領書を見せられて、研究所に30年近く勤務し資料保管の任務を果たしてきたズヴィ・ザメレット氏は、ベナヤフの名前のもと、数ダースの書類・写本が収められている、と明言した。二通の受領書とザメレット氏の証言を得て、今回初めて、私は、この事実を公に出来たのである。

私がシルヴェラ氏に報告すると、氏の家族は、イスラエルの法律事務所に連絡し、家族の寄贈写本の存在について、研究所に正式説明を要求した。研究所の学者達が学究的探索やリサーチを口実に回答するどころか、調べを遅らせていることが分かり、家族は、弁護士事務所に指示し、国家監査院に連絡した。(ベンズヴィ研究所は国家組織として、国家予算を得ているので、監査を拒否でき無い。)

ところが研究所は姑息な法的手段を取った。つまり、1969年に組織編成があり、それまでの研究所は、新組織のヤド・ベンズヴィに吸収された為、以前の研究所と同じではない。名前は同じであっても、それまでの研究所とは異なる組織であるため、旧組織が行ったあるいは行わなかったことについて、新組織は責任を負わない、と。更に、シルヴェラ原稿なるものを探したが、見つからなかった、と。監査院は、この説明を受け入れ、調査は打ち切りとなった。シルヴェラ家の弁護士、ヤロン・ガーバーは私に説明しながら、「この件で明らかなのは、国家官僚の不正はいつまでも正せない、ということですね。」と言った。「ユダヤ社会の貴重な歴史文献の紛失をきちんと説明できないのは、おおいなる国家の損失です。」と。

研究所の学者・弁護士は、こうしたまやかしで、国民の財産を不正に個人の財産とすることが国民にとってどれほど政府への失望と批判を醸成するのかについて思いを馳せることがあるかどうかは別として、1958年に研究所に収められた写本が同じ研究所の管理下にそのまま置かれることに国民の疑惑が生じた場合のことは、おそらく念頭にもないと思われる。もし1969年以降のベンズヴィ研究所が、それ以前の研究所とは違うというのであれば、現在の研究所は、紛失した写本について、何の権利も無いのであり、アレッポ写本の所有者であるという誇りも無いのだから。

口は災いのもと

今年の5月にフラットブッシュ(NY)のアレッポ・シナゴーグで、話をする機会があった。その地域では出版された私の本を巡って、エネルギッシュな議論が交わされたにも拘らず、本を出版して2年たってからの初会合である。地域のアレッポ出身者の人々の中には、明らかにこの件の詳細について厭う傾向があるがそれは理解できる。読者の殆んどにとっては登場人物の一人にすぎなくても、地域のあるグループの人にとっては、知己であったり、親戚だったりする。外部の人間がこの話を公にすることを喜ばない人たちもいるのだ。

会合の日取りが決まった後も、招待自体を拒否するグループもあると、主催者側も気づいたが、シナゴーグは、キャンセルを拒んだ。その地域の知り合いから聞いたところによれば、強く否定的なのは、アレッポのユダヤ人ではなく、ベナヤフの家族だったという。ベナヤフ一家はシリアよりもイラクの出身でイスラエルと外国ではセファー族系の司教であったベナヤフの父イッザック・ニッシム師の名声で知られていた。

私が到着する少し前に、NYのセファー族社会の指導者であるシモン・アルーフ師が私の本を強く非難し、講演には参加しないよう指令した。(アルーフ師はブルックリンにあるエジプトのシナゴーグの長でもある。)師は、この指令は私の本を読んだ後の宗教上の教義指令であるとした。指令は、4ページに渡る美辞麗句に満ちたヘブライ語で書かれ聖書やタルムードの参照も多く、私は悪意をもって正義の人の名誉を毀損したと書いている(ベナヤフ氏の死後は、名前も明らかにしないで非難しているが)。コミュニティーの人々にとっては、単に私の話を聞かないだけでなく、私がコミュニティーを訪れることも阻止し、私の舌の根を射抜くこと(これはエレミア書9:8章から)が大事だ、と述べている。

ジャーナリストの論文とは違って、この種の宗教的司令には、全開示は必要ない。アルーフ師は読者に、彼自身とベナヤフ氏家族とが個人的に親しいということも明らかにせず、また、そうした事実を一般の人は誰も知らないだろうと考えたのかも知れない。2012年の一月、同師はチャナン・ベナヤフ(元館長の息子で、現在は、ベナヤフ家所蔵文庫の責任者)が編纂した祈祷書を高く推奨している。出版された推薦文では、師はチャナン・ベナヤフ氏に好意的な絶賛の言葉を「友」に送っている。

私は、ラビとベナヤフ家の両方に文書で、宗教上の指令をもコントロールしているのですか、と、質問状を出した。どちらも、回答無しである。シナゴーグでの講義には、真面目に興味を持っている人々が参加した。

写本の将来

エズラ・カッシン氏は、テルアビブの郊外のホロンに住んでいるアレッポ出身者のイスラエル人であり、現在の写本の調査に常に大きな関心をよせてきている。カッシン氏は、正式な国家の調査で、全記録や資料を召喚し、事実を解明すべきだと考えている。この目的で、クネセット(イスラエル議会)のメンバーと、私や、他のアレッポ写本地下組織も含んだいくつかのミーティングを開いてきた。彼ほど熱心に取り組んできた人はいないが、イスラエル・ベィテニュ党の党員、デーヴィッド・ローテム氏は、イスラエル版C−スパン(インターネット・ニュース)で記録された通り、議会で私の本のヘブライ語版を取り上げた。(私が彼の注意を引いたとは言えない。ローテム氏は、セル・フォーンをチェックしていただけかもしれない。)

ローテム氏によれば、写本は、アレッポのユダヤ人社会に帰属させるべきである、との意見である。現在の法的処置、つまり1962年からベンズヴィ研究所に管理を任せてきたことだが、これをくつがえすには、二つの根拠がある、という。まず第一に、1969年以後管理をしてきたと主張する研究所の申し立ては、写本がイスラエルに到着してから10年も後の話であること。第二にカッシン氏、私や他の記者のコンピューターに収められた記録をみれば、最初の法的処理が誤っていたことを実証している。私が今回明らかにした文書は、その内の一つだが、他にも多くある、と。

カッシン氏のプランによれば、イスラエルや外国に数多あるアレッポ出身者社会の合同委員会が、写本の擁護委員会となって、写本を護っていく。例年一度は集会を実施し、また、この委員会が、出来れば国家レベルの委員会とともに(あるいは民間レベルでも)紛失した写本のページの行方をさがす。もとモサドの一員だったラフィ・サットン氏の知己には、引退後退屈していそうな、前諜報官も数名いるだろう。

カッシン氏の意見では、写本は、エルサレムのイスラエル博物館に収められるべきだという。ただし、現在のように、地下の写本秘匿室にクムラン写本(死海の書)と一緒に収めるべきではない。(死海の書の陰になってしまうから。)むしろ隣室に、聖書収納室を作りそこに聖書完全版として保管さるべきである。アレッポの大寺院に6世紀の間保管されていたのと同様の状態で。再建されたシナゴーグの建物は、ユダヤ教の失われた共同社会の最重要モニュメントとして復活させ、同時にそこで日常のシナゴーグの活動も回復できるだろうと。

写本の欠落部分はこれまで同様シナゴーグに保管され、過去同様、預言者エリアの名の元に収められる。おそらく、いつの日にか、紛失した部分も、ここで元通りに一緒に集められて。

「アレッポ写本は博物館の死せる文化遺産ではありません。」と、カッシン氏は、最近私にそう言った。「写本は再び活けるコミュニティーの活ける心臓となるのです。無論アレッポの社会のですが、広い意味では世界のユダヤの民の心臓に。」(完)

訳者の一言 さいごに

2010年の末頃から、トムソン・ネットに厚かましくも「宮平順子ライブラリー」などと大それた枠をお借りし、リスク管理を大枠として(とはこじつけで)、旅行記、記事の翻訳、米国事情など、思いつくままに、駄文を書き込んできました。

寄る年波とはよく言ったもので、70を越えて年波も波高が高くなり、気力・体力に目に見える衰えを感じてきました。ここらで、馬脚(はとっくの昔に現れていますが)に本体が取られない内に幕引きをすることも大事なのではないか、という気がするのも、老いの知恵かもしれません。

これまで、毎月一回のブログを続けてこれたのも、トムソン・ネットの皆様の励ましと、ご好意によってでした。この場を借りて、今までの温かなご支援を深くお礼申し上げます。ひとまず、ブログは、これで閉めることとしたく存じます。今まで本当に有難うございました。(宮平順子拝)

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今もなお解けないアレッポ写本のミステリー 1 


はじめに
2012年に、フリードマン氏のアレッポ写本に関する記事を翻訳したが、昨年の末、私も会員となっているニューヨーク・スポーツ・クラブ(NYSC)で出会った、私と同年輩の婦人と話しをした。彼女は、自分の名はノラだという。他人の名前を覚えるのが苦手な私は、「人形の家」(ノルウェーのイプセン作戯曲の女主人公)と結びつけて覚えたのだが、実際は、彼女はユダヤ人で、例年イスラエルに行くのだといった。
その時、私はアレッポ•コデックスの話しを振ってみた。彼女は「面白そうな話しね」と返したので私は、その日すぐ彼女に、NYタイムスの記事をPDFで送った。すると、彼女からは、すぐに連絡があり、あの記事の続きが出ている、と教えてもらったのが今回の原稿である。ひょんなところから、ユダヤ教(キリスト教の元根でもある)や、イスラエルについて興味を覚えたので、この第二稿を訳すことに決めた。(ボケ防止でもあるので、一石二鳥。)

ある点、イスラエルという国と政治家、金融、などで、世界の陰謀説には必ずでてくるユダヤ・シンジケートの一側面を覗く機会となった。ご興味のある方には、原文(英語)をお送りします。(宮平順子 2016年4月23日記)

今もなお解けないアレッポ写本のミステリーのその後 (1)
マッティ・フリードマン
2014年6月30日 (www.tabletmag.com)

長らく忘れ去られていたアレッポ写本に関わる話、ヘブライ語の聖書(旧約)の正統な写本について2012年に私が出版した話(こちら)が、かくも長い間、私を論争に巻きこむことになってしまったことについて、私自身、予想もしていなかったと言わねばならない。ジャーナリストの端くれとしては、通常、一つのテーマで仕事をすれば、次には全く別のテーマに移るものと思っていたのだ。ところが、時には運命のごとく、その仕事自体が、一人歩きを始めてしまったのだ。私が書いた本が元となって、写本に忠実でありたいという熱意にあふれた少数の師弟達(最も若いのは36歳、これは私、最高齢者は82歳で、元モサドの担当官ラフィ・サットン氏)が勢いを得たこと、同時にNYの高名なラビ(ユダヤ司教)が、私を相手取って非難通達を発行したことが発端だった。手短にいえば、アレッポ写本は、過去の何世紀にもわたって密かに眠っていた時代よりも、現在のほうが、よほど活発に生きている、と言えよう。そこで、世界に存在する最も貴重な資料の一つをめぐって、過去2年にわたって起こったことを正確に記すことは、写本ファン、写本マニアに取っても意味のあることとなるだろうと考えたのである。

アレッポ写本

先ず、この話を始めて読む読者の方々のために、過去の背景を簡単に記そう。アレッポ写本とは、約500枚の鞣皮の写本ページの集大成で、ティベリウスによって紀元930年位に集大成された写本で、世に知られる旧約聖書の最も古い完成文書である。これは、十字軍によって1099年にエルサレムに持ち去られたが、エジプトのカイロでユダヤ教徒に買い戻された。それからマイモニデス(ユダヤ教思想家)の編集を経てユダヤ教典の最も明晰で忠実である最高写本とされた。その集大成は、シリアのアレッポに移され、6世紀の間、厳重に護られてきたのである。「アレッポの宝冠」と呼ばれて。

1947年、国連決議で、パレスティナ分割が決まり、その後の動乱の間に、写本は姿を消したが、10年後、なんとも不思議な状況で、新興国イスラエルで姿を現したのである。写本は現在、イスラエル博物館にあり、死海の書(巻物)と同じ建物に収められている。ただし、博物館の管理下にはなく、ベン・ズヴィ館(イスラエルの2代目大統領ベン・ズヴィの名を冠した学究的研究所)の管理下にある。

20世紀半ばに、200枚もの写本頁が、全体の40%にもあたる部分が消え去った。その中には、最も重要といわれるトーラー、モーゼ五書も入っている。

写本をめぐるミステリーは2種類だ。まず、アレッポの大シナゴーグの奥深くの秘匿所から、イスラエルまで、どうやって運ばれ、新興国の所有物となったのか?
そして、失われた部分写本は、どうやって失われ、あるとしたら、どこに?

まづ第一のミステリーについて、研究所が50年間言い続け、そのように受け入れられてきた説明は、写本は、アレッポのユダヤ社会から、新国イスラエルに贈与された、というものである。だが私の調べでは、実際はそうではなかった。実際には、写本はシリアからトルコへと、洗濯機の中に隠されて持ち出され、その後、新国イスラエルのエージェントが、それを盗み新国側に渡したというものである。写本がイスラエルに届いた時、アレッポのユダヤ人集団とイスラエル国のユダヤ人は法廷闘争を繰り広げた。この法廷闘争は、政府要人を含んだ醜聞とされ、裁判の内容は、公表されなかった。法廷記録は外部には報道されず、1958年の決裁時以後出版禁止とされ、ついに禁止が解かれることはなかった。私が本を出版したのは、54年後のことである。

二番目のミステリー、紛失した写本鞣皮は、どこへ?については、聖書研究者、アレッポからの逃難民など小さなサークルの中では、有名な話である。イスラエルで、写本を管理している研究者や役人の表向きの説明では、写本の多くは、1947年のアレッポ騒乱時に紛失したと言われている。だが、我々の調べでは、騒乱の5年後の1952年くらいまでは、実際に存在していた。写本の紛失が目立って知られたのは、写本がエルサレムのベンズヴィ研究所に届いてから、1958年以後のことだった。

私の調べでは、写本が紛失したと同じ頃、何十冊という貴重本や、原稿も、同じ研究所から消え去った。私が研究所の元職員に、他の紛失した本や原稿写本の証拠書類を見せて、問いただしたところ、数人が、それらの消失の原因は、当時の館長、メイア・ベナヤフである、と証言した。ベナヤフ氏は写本の研究者で、長い間、輝かしい経歴を持ち、ヘブライの古書、文献を蒐集し、売買もしていた。彼は、1970年の研究所の管理をめぐる法的係争の最中に、研究所を辞めた。

ベナヤフ氏は、2009年に死亡したが、彼はイラク出身の有力者の家系の人である。彼自身は、セファド派のラビ、イツザック・ニッシムの息子で、リクド内閣の高官モシェ・ニッシムとは兄弟である。(当時としては当たり前だが、ベナヤフ氏は、イスラエルらしい、モダンな苗字を選んだようだ。)このスキャンダルは、イスラエルの小さな研究者グループの中ではよく知られていたが、外部には、漏らされなかった。当時のイスラエル大統領、ザルマン・シャザールの直接介入で、法廷闘争は避けられ、警察は呼ばれず、検挙もされず、本も返還されなかった。ベナヤフの家族は、犯行を否認し、真犯人のデッチあげキャンペーンだろう、と述べた。実際、彼らは何故だれも警察に届けなかったのか、と理にかなった質問もした。現在、ベナヤフ氏の家族は、ヘブライ語の文献の個人所蔵としては、最大のコレクションを持っている。

ベン・ズヴィ研究所で、実際に何が起きたのか、研究所から消えた原稿や本はどこへ行ったのか、消えた写本のページと、関わりがあったのかどうかは、間違いなくイスラエルの学会の歴史で、最悪のスキャンダルになるだろう。証人として、ベナヤフの名を指名して稀本の紛失の責任を指摘したのは、ズヴィ・ザマレット、また研究所の上級管理官で長年研究所に勤務し、その後イスラエルの教育庁のトップとなったヨーゼフ・ハッカー、ヘブライ大学の名誉教授で、研究所の前副館長、そして、亡くなったヨム・トヴ・アシス、ベンズヴィ研究所の統括者、私が調査した時の館長である。

失われた写本とベンズヴィ研究所から紛失した古写本と関わりはあるのだろうか?ベン・ズヴィ研究所の学者達は、疑惑を払い除けようとしながらも、徹底検証には抵抗している。

チーズ商人

写本のミステリーの中心はシリアのアレッポのユダヤ人社会にある。今日、アレッポに留まっているユダヤ人はいないが、ユダヤ系シリア難民の最大の移転先は、NYのブルックリンであり、また、NJ州のディールであり、北米中部、南部にも散らばっている。アレッポ出身のユダヤ人とその子孫のコミュニティーほど写本の話に強い反応を示したところは無い。本を出版してほどなく、私に連絡を取ってきたのは、そのコミュニティーからで、ディールのユダヤ人の私宅で催される読書クラブに出席を要請してきたが、それには70人位の人があつまり、議論は白熱した。同じ頃、シリアの出身者で高名な人の名誉を傷つける、という理由で、私の本を読まないように、というEメールも回覧された。

なかでも重要人物とされたのは、ムラッド・ファハム氏で、アレッポのチーズ商人で、命を懸けて写本をシリアからトルコに持ち出し、1957年にはイスラエルに運んだ人だった。イスラエルに到着した時、彼はイスラエル国の役人に写本を渡したのだった。(ファハム氏は、フラットブッシュ(訳注:ブルックリンのユダヤ人地域)で余生を過ごしたが、そこでは彼は写本の移動で重要な役割を果たした人と認識されていた。彼は1982年に死亡。)ベン・ズヴィ研究所の研究員や、ファハム氏とその子孫の公式見解として知られているのは、チーズ業者は、アレッポの二人の高官ラビの指示に従って、写本をイスラエル国家に委譲した、というものである。ベン・ズヴィ研究所(恐らくイスラエルでの最高教育機関でヘブライ大学と連携している研究所)は、1985年に写本の正史を出版したが、学者達は、それが事実とは異なることを識りながら「正史」に異論を唱えなかった。

裁判の証言記録によれば、実際にはアレッポの高官ラビは、ファハムに写本をイスラエルに運び、それを政府ではなく、イスラエルに在住するアレッポ出身のイザック・ダヤンという名の高官ラビに渡すように、と指示したのである。だが新国家の役人の圧力を受けて、ファハムは、最初に与えられた指示に背き、そのため、ユダヤ社会は、最も重要な写本の所有権を失ってしまったのである。

私の本は、書類の写しを含んでいなかった為、私がそうした話を作りあげたのではないかとの疑いを呼んだ。そこで、今回、私は、1960年3月1日の裁判証言記録をのせ、二人のラビの証言を含めたのである。(写しは次号)

「トラーの宝冠は、アレッポ社会に捧げられ、所有されるものであり、何人もそれを替えてはならない。我々は、写本を一人の男に託し、かれはその使命を裏切った。」と、二人の高官ラビの一人、モッシェ・タウィル師は、法廷で証言した。「もしラビ・ダヤンがイスラエルに住んでいなかったなら、我々の宝冠を持ち出すことは絶対にしなかったであろう。」と。

「我々は、写本をラビ・イザック・ダヤンに渡すべく、ファハム氏に委託したのである。」と二人目の証人ラビ・サリム・ザーフラニ師は述べた。「我々は、他の誰にも絶対渡してはならないと指示し、それ以外の行為は許可していない。。。写本は、アレッポ社会に属すもので、イスラエル国にではない。」

この話の核心と異論の疑義は、イスラエルに写本を送ったアレッポのユダヤ人が、最終地をどこと意図したのか、である。疑義のある人にとって、この書類写しは、確固たる証拠ではないだろうか。(以下次号)

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