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朝日新聞騒動 

従軍慰安婦米国内に点在する「従軍慰安婦の像」


ここ2,3ヶ月、月刊「文藝春秋」は、朝日新聞の「従軍慰安婦記事」に関わる「告白」と「お詫び」について、大きな部分を割いて、連続して批判している。その陣容も「朝日新聞の“告白”を越えて」という歴史文学者塩野七生さんの論文から、東大名誉教授の平川祐弘氏の、「朝日の正義はなぜいつも軽薄なのか」という意見、朝日OBの意見(元主筆、元編集委員、元政治担当編集委員、販売事業部の元社長等)その他、政治家、社会評論家、他の新聞社、朝日の過去の論説委員、などなどを動員して、現社長のお詫びが適切であったか、適切でない場合は、どうするべきか、今後、朝日はどうあるべきか、等々、朝日新聞の「罪と罰」を論議している。

だが、そう言ってはなんだが、朝日に限らず各新聞社も、これまで「社会の木鐸」と、自分達で言ってきたのでは無かったか。それでありながら、大新聞の「権威」と「威力」の味は、しっかり味わってきたのではないか。でも、考えて欲しい。どこにも、「朝日」という姓名を持ち、「新聞」という名を持つ記者は、存在しなかったことを。(無論、他社も同様である。)朝日新聞は、企業の名に過ぎない。そこに働く記者には、一人一人に固有の名があり、多くの記者は、真剣に自分の職務を全うしようと、日々研鑽している人々なのだ。だが、彼等は多くの場合、花方記者は別として、自分の名前ではなく「朝日新聞」という企業の名でしか、記事は書かなかった(書けなかった)。私は、ここに、日本の新聞の紙面構成上の今後のヒントがあるような気がしている。

記者クラブという特殊なクラブに属することによって、情報を独占してきたのは、朝日だけでは無かった。多くの識者が、今、霞ヶ関記者クラブを廃止すべきだと論ずるのは、偶然ではないだろう。先ずは、記者クラブ自体を自由化することから始めてはどうだろう。基本どの新聞社の記者でも、どの記者クラブにも自由に出入りできる仕組みがあってしかるべきではないだろうか。人数が多くなって困るというなら、それぞれの記者クラブが、独自に規則をつくる、或いは、会員を募集すればいい。なお、そうしたクラブは、日本人だけでなく、外国人にもオープンにすべきだろう。(日本に堪能な外国人記者は多い。いつまでも日本語のみに頼るのは無理がある。彼等はグローバル社会での意見や見方を代表していることも多いだろう。)

各記事は、すべて書き手の名を入れる。記者名は、一人とは限らない。NYタイムスの場合、たとえば、国際的な騒擾の場合(戦争、金融を問わず)当時国や都市ばかりでなく、ヨーロッパ・アジアに点在する各地記者が、数人参加して、一つの記事を書くのも稀ではない。新聞は複数の記者の名前と勤務地を載せる。無論最終原稿をまとめた人は、その旨記載される。結果、記事はずっと複眼的、立体的となるだろう。それこそが、新聞報道のあり方ではないか。(すでにネットでの報道は、この方向が主である。)

「◯◯新聞」ではなく、「◯◯記者」を明記することによって、各記者の責任の所在も明確になる。仮に一人が誤報を流したとしても、記事を検証することで、その理由も明確になるだろう。それを積み重ねていくことにより、新聞社としての重みと厚みは増えるのではないか。また、記者が誰であっても、書かれた内容を独自に検証する責任は、編集側にある。今の、日本式「お詫びして訂正します。」は必要ない。「訂正欄」に事実を記述するのみで充分ではないか。

大体、吉田某一人の話で、慰安婦が国家事業と規定されてしまった、などというのは、どう考えても不自然ではないか。最初から、吉田某が、こうした状況でかく語った、という記事であれば、そして、検証する部門が、独立して機能していたなら、地理的にも、時系列的検証も、もっと早くに出来たのでは無かったろうか?「朝日新聞」家の名の元に有耶無耶にされた、というのなら、いかにも、片手落ちで残念に思える。

ところで、文春の11月号では、稲田朋美さん(自民党成長会長)が、「南京大虐殺」関連で、百人斬り裁判の記憶について一文を寄せている。この件については、私も昔読んで感動した「南京大虐殺のまぼろし」という本を書かれた鈴木明氏が、東京日々新聞(現在の毎日新聞)の浅海・鈴木の両特派員が、日本軍人、向井敏明少尉(第三大隊歩兵砲小隊長)と野田毅少尉の二人が、日本刀「関の孫六」で、中国兵百人斬りを競い合ったという話を、4日に渡り載せたと、内容については懐疑的に書いている。

だが、この「浅海・鈴木記者の会見」の記事が「証拠」となって、この二人の軍人は、戦後、南京の雨花台で、銃殺刑となった。後に、この二人の軍人の遺族が浅海氏を訴訟した時、浅海氏は、実際の斬り合いは見ていない、話は、軍の上層部から聞いたと主張し、最高裁まで争いながら、最高裁は最終的に遺族の訴えを却下した。(警察・検察・裁判所の問題は、日本の光と影の、もう一つの更に重要な問題点を含んでいる。新聞どころの騒ぎではない。)

その後、朝日新聞の本多勝一記者が、「中国の旅」の記事で、南京の百人斬り競争を「実話」として取り上げた時、山本書店の山本七平氏と論争があったことは、多くの人の識るところだろう。本田氏と山本氏は、いわば「天敵」だった模様で、「日本教について」という本で、山本氏は本田氏の主張を逐一論破している。本田記者の記事は、記事自体としては、大変よく出来て文章が見事だと私もかねがね思っていたので、山本七平さんが、公に批判しているので、当時は不思議だと思ったこともある。だが、読んで、納得したのも本当だ。 事実は小説ではないと。

記事を書くのは、それなりに責任のあることだ。それが判っているからなのか、日本企業の不祥事とか、役員の不祥事の場合、多くの新聞記事は、企業名のみに留める。また、不祥事を起こした会社の場合、責任のある役員は、逮捕されても実刑に服することは稀である。大抵の場合、刑期があったとしても、それを越える執行猶予期間があるからだ。そうした企業優先の国であればこそ、それを日々情報として国民に報せる責任のある新聞社は、j事実報道の責任を、真摯に感じるべきだろう。 

今回の朝日騒動は、増々狭くなる地球での日本の居場所を確保する上でも、無視出来ない重要な点を含んでいると思う。もう昔の藩閥のご家中みたいな企業の名に隠れて(護られて)人生を過ごす時代は終わったと、今の若者達には判っているのではないか。私達高齢者の仕事は今の内に、若い人たちが、澄んだ眼で世界を、また日本を、見通すことの出来る仕組みを残すことではないだろうか。それが出来て始めて朝日騒動は終わったと言える。時間は余り無い。

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