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傍観者がヒーローになる時 

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傍観者がヒーローになる時

9/11のテロを思い出させた、ボストン・マラソンの爆破事件。NYタイムス紙は、事件時の周囲の人々の対応について、人々の意見をつのり、紙上ディベートを繰り広げた。以下は、その抄訳である。
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ボストン・マラソンで爆発があった時、路上の群衆は散らばった。だが、何人かは傷ついた人々を助けようと爆発のその場所に向かって走った。  
日常でも、事故があれば近くにいる人は犯罪を防止し、助けを呼んだり、生き残った人に付き添ったりする。同時にそんなことはしないこともある。例えばコネチカット州の乱射事件、オハイオ州のトリントン事件(18才のフットボール選手若者が2人、13才の少女を強姦した事件で、住民は少年達を庇った)、オハイオ州のステュベン事件(トリントン事件同様、暴行の被害者を非難するメールが多数送られた)、ペンシルバニア州立大学事件(フットボール・コーチのサンダスキーの少年性的暴行事件)、テキサス州のクリーブランド事件(少女輪姦事件)、最も有名なニューヨークのクィーンズ事件(アパート近くで女性がメッタ刺しで殺され、40人近くの人が目撃したにも関わらず、誰も救おうとしなかった事件)などがある。
傍で目撃した人は、割って入る責任があるのだろうか?そうしなかった人々を非難すべきだろうか?何故、ある人々は、逃げるよりも助けるために、現場に駆けつけるのだろうか?
 
落ち着いて、日々を暮らす 
• ノース・ウェスタン大学の心理学教授アリス・イーグリー女史は、こう分析する。

ヒロイズムの研究では、ヒーローは、命や身体を張って人を助けても自分の手柄だとは言わず、他者の苦境を見るに耐えなかったから危険も顧みかった、と説明する。だが、緊急の場合には、瞬時に突発的な行動が必要になることも多い。自分の道徳律など考えている時間も無いだろう。そうした場合は、救助者は大概、「考えもせずに」行動した、という。 
何が、考えもせず、危地に飛び込ませるのだろう?状況は勿論のこと、こうした際の2つの資質は、自分の能力に対する自信と、他者を助けるために恐怖を克服する力である。究極的に物理的な力が必要な場合は自分の身体がシッカリしていて、頑健であることが自信に繋がる。また、以前受けた訓練とか、危険の対処法もある。例えば軍に入隊していた、とか、医学の心得があるとか、CPRの訓練を受けたなどである。また、感情的な恐怖を克服するには、家族、学校、地域なども関わるだろう。

多くの人生は一般の人が英雄になる機会や危機にあふれている訳ではない。だが、人生は、多くの人が、時として助けを必要としている時に勇気を振り絞って助けること位の機会には遭遇するだろう。イジメに合っている人を護るとか、不平等な扱いを受けている人の為に援助を差し伸べるとか。そうした日々のヒロイズムが我々の称賛に値することだということではないだろうか。

少なくとも言って欲しかった
• 性犯罪被害者救済基金「失われた声を取り戻そう」の創始者であるルース・クルッグは、強姦被害者の立場から訴える。

それは辱めと恥だった。怒りと裏切りだった。私が強姦された時、肉体的なトラウマと犯人に与えられた恥辱で、気も動転した。だが、私は傍観者を決して忘れない。彼は私が尊敬する人だったのが、黙って、私の誇りと自尊心が失われるのを、じっと眺めているだけで何もしなかった。
彼は、暴行を防げる立場にあったのだ。もし、私が「止めて」と言った時、彼が「止めろ」と言ってくれれば、二人の声が合わされれば、どれだけの力になったか。
大学のフラタニティ館で、恐るべき不義が行われた場所は、沈黙を選んで何も言わなかった男を思い出させる恥辱の場所となった。
クラスの窓から見えるその建物を見る度に私は、怒りと無力と恥を否応無く繰り返し思い出さざるを得なかった。私は、体育の選手で熱心だった。だがそれだけでは、ミシガン州の、この汚れた社会と大学に留まる理由にはならなかった。その建物を毎日見て居るうちに、私は競争も学校も嫌いになった。多くの人が、何があったか、知っていたが、それを否定する人もいた。この不正の中で生活することは出来なくなって、私は退学した。 
最終的には、その記憶を捨て去る為にその場所を去らなければならないと、私に気づかせたのは、傍にいながら、黙って犯罪が行われるのを見ているだけで、そうすることによって被害者に心理的な害を与えた「傍観者」だったのである。
「傍観者」に徹して、暴行を放置した人たちは、単に「傍観者」ではなくて、むしろ彼等が、生存者に忘れられない精神的な傷を負わせたのである。彼らの顔を私は決して忘れない。暴行事件の後、その彼は起きたことについて一言も言わなかった。私の声と自尊心を取り戻す機会をすべて無視し、私の人格を無視しつづけたのである。
傍観者は、たくましいヒーローになる必要はない。ただ、反対の声を挙げるだけでよいのだ。暴行が行われた時、そのすぐ後で、声だけでも挙げてくれたら、と、犠牲者は思う。

ヒーローの頭脳の働き方
• カリフォルニア州の工科大学の心理学教授、スティーブ・R.クォーツ氏は、「嘘つき、恋人、英雄:最新の頭脳科学は、我々が真に何者であるかを明らかにする」の著者である。

危機の時、一瞬の決断で、助けるのか逃げるのかを決めるのは、大概自動的な反射神経の作用だと思われている。だが、その一瞬に、傍に居る人の頭脳は何兆という計算をしているのである。反射神経と思われているのは、実は、いわば、スパコンの100倍もの速さで行われる、極めて複雑な倫理の計算なのである。
倫理の電子計算と、それが個人の道徳観念にどう関わってくるのかの一つの重要な因子は、「感情移入」である。痛みの経験と、他人の痛みを見ている中で、重なる脳の層が刺激され、他人の痛みを自分のものとして感じ始めるのである。  
更に、この能の活動の力は、ある特定の個人にとっては、人類愛とも結びつき、他者に苦痛を与えない為に、自分で苦痛を引き受けるほど強力に作用することもある。 
人間の5-10%は、この共感性に溢れ、従って、人類愛にも溢れている。そこで、ことなる道徳律を理解するには、各個人の能が共感プロセスで異なっているのかを調べることだろう。一番単純な見解は、我々の内の「倫理的ヒーロー」は共感力に富み、従って人類愛にも富んでいる、ということだ。人口の5-10%は、倫理のお手本となる。彼等の能は、構造からして異なるかもしれない。経験と環境がそうした倫理能を形作るのかは、重要な科学上の神秘作用である。
では、残りの90%はどうか?ローレンス・ウォーカーの英雄とのインタビューでは、彼等は自分自身は至極当たり前の人間であると言う。そうかもしれない。そうだったのだろうか?環境のある因子が90%の共感度を高めて、倫理的に普通の人の能を英雄のように変えたのだろうか?
鍵は、最近の能進化の研究で知られてきた、前頭葉皮質の関わりである。他者を自分とどれだけ似ているのか違うのか、という観点、或は共通感情の度合い、恋人か、友人か、他人か、という度合いを基に、一瞬にして扶けようとし、眼差しとか叫び声などで、他者の苦痛を共有し、英雄的行動に走らせる、つまり、一瞬にして共有感が人類愛に転換され、他者と自分とが一体になるということではないだろうか。

9/11の生存者)は他者の苦しみを見過ごしに出来ない
•マイケル・ベンファンテ氏は、9/11の生存者であり、「なりたくなかった英雄-9/11の生還者が、あの一日で何を学び、どう潜り抜け、絶対忘れてはいけないことを語る」の著者である。

何故人は危険から離れようとし、またある人は、危険の中に飛び込むのかは、よくわからないが、自分の心情と気持ちから言えば、直感的に、危険に近寄って、人を助けたいと思う。あの9月11日もそうだった。
誰かが苦しんでいたり、傷みを堪えていたり、危険に晒されているとき、先ず思うのは、私の持っている力で、苦しみを和らげ、危険を防いだりする行動を起こしたいという気持ちである。何故そうなのかは、判らない。ただ、自分が安全なのに、他者が苦しんでいるのを見殺しには出来ないからだ、ということかも知れない。.
最初の本能は、危険に向かって走り、人を助ける、ということで、それが、9/11の日に多くの人が同様に感じたのだと思う。多分ある人にとっては、本能的にそうした性格が備わって、また、個人の体験からそうした感情が芽生えるのかもしれない。その両方かもしれない。

いずれにせよ、我々と他者に危険が及ぶ時、我々は本能的に苦しみの総体を減らそうと他者への手助けをするのではないだろうか。それが、あの9/11での体験で、同様な活動が、ボストン爆発の時にも、害を減らし、慰安を提供することで示されたのだと思う。それが人間ではないか。

無視できない倫理の指標 
• 「アラーと自由と愛」の著者であるイルシャド・マンジは、NY大学のワグナー校にある、倫理的勇気TV局の局長である。

2世代に亘って、社会科学者は、何もしない「傍観者的態度」を記述してきた。危険時に扶けようという傍観者については余り言及しなかった。危険が切羽つまっているときに自らその危険に飛び込むのは学者が通常薦めることではなかったからである。
だが、それは、倫理的勇気が欠如していたからではないか。ロバート・ケネディは、倫理的勇気を自分を危険に追い込むことで、多数の他者を救うことだ、と、述べた。だが、それは戦時中の勇気では無い。行軍命令でできることではないからだ。
むしろ。逆に、倫理的勇気は、自分の良心の内から沸き起こるものであるから集団無関心の傍観者ではあり得ないのである。  
ボストン・マラソン爆発の時、一人の男性は、自分のシャツを破いて、他人が爆発の火にさらされるのを防いだ。誰かが、そう指示したのか?監督庁の人が、誰かを助けろ、と、命令を下したのか? 
その人は、イラク戦争で息子を亡くした。そのことが、男に倫理的勇気を与えたのだ。だが、理由などはなんでもない。誰も、彼に命令したのでもなく、彼は個人的な思いで、崇高な行動を示したのだ。 
第二次世界大戦で、多くのイスラム教徒がユダヤ人をナチの手から護った。ファシズムに反対するイスラム教徒も無論いたが、ユダヤ人を救えというファトワがあった訳ではない。何故、家族全体を危険に晒してユダヤ人を救ったのか? 
我々にはそうする義務があった、と、いう人もいる。イマム(指導者)から言われた義務ではない。共感情からの義務。倫理的勇気は、自分自身の内からでてくるものである。そして、それが、傍観者を参加者に変える効果を持つのだ。
 
できることをする責任
• サム・ステーリー氏は日本で、「刀心道(とうしんどう)」戸隠の忍者の術を学んだ人である。イジメについて、, “A Warrior’s Soul(武人の魂)” と “Renegade(反逆者).”の二冊を著した。
 
暴力的犯罪が行われている場合、傍観者は、それに介入する責任があります。我々の社会を存続させる為に必要な信頼と個人の自由は、暴力なしに我々の能力を高め、共同社会のメンバーとして平和を維持することで成立しています。暴力犯罪は、まさしく、自由社会の核を腐敗させるものであり、真の問題は、それを防ぐいかなる手段があるか、であります。

自己防衛のクラスでは、我々は、時間を掛けて新入生に、自声を使うことを訓練します。この訓練では、実際の目的によって、個々の生徒の息継ぎを効果的にし、防衛のテクニックと手段などとして学ばせます。基本のゴールは、生徒一人一人の力で、自分の力強い声で、攻撃を防ぐことができるようにすることです。多くの攻撃者は、捕獲者と同様、獲物の弱点を見つけ、それをターゲットにします。力強い声は力を表し、攻撃者に、こちらは弱くないのだという信号を与えます。また、同時に他の人たちにも、攻撃の注意を促します。

911に電話するのは、せいぜい傍観者が出来ることかもしれません。他のひと、例えば非勤の警官であれば、攻撃事態を止めさせることが出来るかもしれません。 だが、おそらく地声の重要さは、他の人への攻撃を止めさせることにあるでしょう。単に、「止めろ!」と叫ぶことでも、ただの通りすがりを保護者に変えることにもなります。

無論、個人個人で、どのレベルの抵抗をするのか決めなければなりません。 ある人にとっては911を回すことだけがせいぜいということもあります。また、非勤の警官や、武術の心得のある一回の市民でも、個人の抵抗が攻撃を緩和させたり、終わらせたりすることも出来るかもしれません。スキルによっては攻撃を辞めさせることは無理でも、死亡を避けることもできます。ボストン・マラソンの爆発後には、多くの医療のプロが現地で、止血したり、緊急手当をしていました。

能力の如何によって、傍観者であっても攻撃に遭っている人の側から立ち向かうべきでしょう。我々の自由社会が侵害されないように。 
 

どちらの証人が間違っているのか 
• サラ・ベン・ダヴィドとインナ・レビの二人は、アリエル大学で教鞭を取り、レビ氏は、ザファト・アカデミック大学でも教えている。

我々は、時々新聞の見出しに、「強姦殺人者」が傍観者が居るにも関わらず犯罪を犯した、とか、見た人はいるのに、だれも止めなかった、という記事を見る。こうした記事は論議を呼ぶ。傍観者は、被害者に対して責任があるのだろうか?我々は、せっかちに、「そうだ。」と言いたがる。道行く人が悪い、と。この伝でいけば、通りすがりの人は、人間の生命を救ったり、被害者の苦しみを防ぐ立場にあり、それをしなげれば、被害者の運命に責任を感じるべきだ、ということになる。
こうした考えは、重大な区別分析を忘れている。傍観者のあるグループは、被害者を助けたり、犯罪を未然に防げたかもしれないのに、何の行動も起こさなかったので、他よりも責任が重いかもしれない。もう一つのグループは、なんの行動も起こさなかったが、犯罪を未然に防ぐことも被害者を救うことも出来なかったであろうグループである。
同じ「傍観者」でありながら、責められる側と責められない側との境はあいまいである。問題は根深い。
人間の性として、最初のグループは、責められても仕方がない、また、次のグループは、責められない、と思いがちである。だが、この区分けは明瞭ではない。区分けは後から考えても傍観者の行動で犯罪が成立することでもない。従って、傍観者が責められるべきかどうかは、客観的に決められることではない。
深く考えれば、別のファクターを入れて考えるべきであろう。自分を被害者の立場に置いて考えがちな人々は、傍観者の責任を強く唱え、傍観者になりそうだ(犯罪を見る側になりそうだ)と思う人達は、傍観者無罪論を唱え勝ちだ、ということである。
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以上、様々な意見が飛び交わっているところが、いかにもNYタイムスだと思った。戸隠流というのも、今時、忍者の術を学んでいる人もいる、というのが妙に新鮮な印象だったし。

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