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アマンダの罪 3―公権力との闘い 

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写真はアマンダ、メレディスが住んでいたペルジアの家(BBC提供)

喉を掻っ切られた若い女子学生の死というペルジアのセンセーショナルな殺人事件は、イタリア、英国、アメリカは無論のこと、世界中のメディアを巡った。しかも犯人は、アメリカから来た女子学生で、「恋の縺れ」「嫉妬」「ドラッグ絡みの乱交パーティー」という扇情的な内容が一人歩きし、世界中の大衆紙の格好の的となった。

だが、アマンダの出身地シアトルやハリウッドを拠点に、アマンダの両親(離婚していたが、娘達とは友好的な関係を保っていた)を中心として、「アマンダの友」、「アマンダ擁護基金(弁護士費用等の係争費用の為)」、「ペルジアの不正義」、等の義捐組織が次々設立され、Eメールが飛び交った。同時にイタリアの司法制度、警察の尋問方法、捜査の内容も詳細に報道され始めた。アメリカの法務関係者が、ペルジア警察の調書の取り方、証拠集めの手法に疑問を持ち始め独自に調査を始めたのも、最初の判決に近い頃だった。

ことに、「ペルジアの不正義」は、警察側の証人、証拠、をひとつひとつ丹念に検証していき、ペルジア警察・検察側の現場検証のエラー、証拠保全対策の杜撰さ、法廷証言する証人の信頼性の有無を調査報告している。例えば、殺人のあった日から46日経った後、初めてアマンダのDNAが検出され決定的物的証拠となったソレシートの家にあった包丁であるが、ハンドル部分からアマンダのDNAが検出されたが、これは事件前夜アマンダがソレシートのアパートで、料理をしたからであり、刃からは、DNAも血痕も検出されていない、と書いている。

また、ソレシートのDNAが検出されたというメレディスのブラのスナップについては、最初の現場検証ではソレシートではなくルディのDNAが検出されたのに、一月半後にいきなりソレシートのDNAが検出され、ソレシート共犯の証拠とされたのも、殺人が発見された直後は、アマンダ、ソレシートを含む複数の人々が現場(アマンダの部屋も含め)に出入りし、また、調査官は最初に使用した同じ手袋をそのまま使用して、ソレシートの備品もあれこれ触ったので、検出自体に信頼性がない、との議論が出た。

通常、血液のついたナイフなど一つの証拠品にさわった手袋は、他の証拠品を扱ってはいけない。でないと、付着したDNAが手袋を介して、別の物件に付着し、正確な検査が出来なくなると、アイダホのボイジー州立大学の教授が新聞報道で指摘し、「真性に科学的な調査は、無実の人を救済するが、間違った調査は、無実の人を罪に陥れる」と警告している。

アマンダとソレシートは有罪判決後、直ちに上告した。刑務所の中からは、真犯人はアイツだという囚人が後を絶たず(マフィアの組員や刑務所暮らしが長くなった者が、知己に聞いた、本人の告白を聞いた、と次々新たな説を述べ、検察も警察も大わらわとなった)とCNNは報じている。アメリカからは、クリントン国務長官も巻き込んだ国家間交渉をという声も出た。現地ルポや、調査ルポには優れているアメリカのメディアは、こぞって現場検証の裏を取り始めた。ペルジア警察が証拠として示すヴィデオ記録自体、その手法についてはアメリカから異議が出た。

殺されたメレディスの家族側は、ペルジア警察の発表通り、アマンダが犯人の一味であるとして、高額の賠償金を請求した。アマンダ側は、拒否。メレディスの父は、余り声高に発言をしないと英国ガーディアン紙の同情をさそい、感情を顕にせず、内に秘めている思慮深い男として、賞賛する記事をのせた。(それに引き換えアメリカ側は、という論調で。)

検察長のミンニーニ氏は、アメリカからの調査報道攻勢に反撃を試みた。イタリアの司法組織(自分)に違法に介入し、陥れようとする陰謀がある、と新聞に述べたりした。私は殺された哀れな被害者の為、真剣に真相究明を望んでいるだけだ、と。

ミンニーニ氏は、特殊犯罪捜査班(GIDES)に属しているが、何故ペルジアの検事が、「フィレンツェの怪物」に絡まったかといえば、2005年になって、20年前の事件の関係者がペルジア管轄の湖に死体で浮かんでいた為、である。だが、振り返ってみると、「フィレンツェの怪物」の事件の最初から(1974年*)警察・検察は、単独犯説を退け、複数の共犯者がいるはずである、という立場を崩さず結局迷宮入りとなってしまったので、警察・検察が捜査の初動ミスを早い段階で認めて修正していれば、解決出来ていたのではないか、という意見は多い。

マリオ・スぺッチというフィレンツェの犯罪記者が独自に調査して、ダグラス・プレストンというアメリカ人のジャーナリストと一緒にこの事件の経緯を出版しようとした時も、ミンニーニ氏は、圧力をかけて出版を差し止めようとした。スペッチ・プレストンの本は2006年に出版されセンセーションを巻き起こしたが、その直前にスペッチはペルジアに連行され、ミンニーニの尋問を受けている。又、プレストン自身もミンニーニの尋問を受けたが、長時間に渡る執拗な尋問と誘導的手法、その様子は、アマンダが述べた尋問に実によく似ている。

スペッチ氏は、GIDESによる電話盗聴、自動車からの機器の盗難(GIDESの差金?)に抗して、2008年に、ミンニーニ氏を相手どって公権力の横暴であると訴訟し、2010年には、ミンニーニ氏有罪の判決が下っている。だが、ミンニーニ氏は、控訴し、敗訴が確定するまでは「推定無罪」で、そのまま検事の椅子に座り続け、メレディス殺人事件を担当し続けた。推定無罪も都合よく公権に合わせているように見えるのだが。

だが、世間・メディア・国際環境の方向は、こうしたミンニーニ氏とそのグループの捜査手段とその結果の判断に大きな疑問符を付け始めたのは事実である。

そして、アマンダ事件を取り上げたこのブログの最初の場面に戻るのである。陪審団は、アマンダもソレシートも事件に関係無しとして、即刻放免となった。アマンダがワッ泣き崩れたのは、公権力で徹底的に抑えつけられた自我、精神的に崖っぷちに追い詰められ、それでも曲げなかった無罪の主張が認められたことで安堵した時の心理的情動開放だったと思う。

アマンダの罪は若いことでも美人であることでも、ましてや殺人ではなく、検察方針に決然と対峙じたことではなかっただろうか。(了)

*実際には、1968年の殺人事件がこの連続殺人事件の始まりだったといわれる。

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アマンダの罪 2―捜査と最初の判決 

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捜査にあたり陣頭指揮を取ったのは、エドガルド・ギオッビ氏。氏は現場検証して数時間後にはアマンダが事件に関わっていると早々と発表した。曰く、捜査の邪魔にならないように、靴にカバーを付けなさいと渡したとき「靴カバーを付ける時の腰の動きで判った」と述べたので、記者は仰天した、とある。また重大事件を手がけたという有名な検事ジュリアーノ・ミンニーニ氏が検察の指揮官として11月2日に現場に現れた。そして、11月3日から6日にかけて、アマンダとラファエレは、警察に連行され、アマンダ自身の言葉で言えば「食事も水も与えられず、トイレも行かせてもらえず、弁護士の立会いも無く」一日14時間もの尋問にさらされた。

検事長のミンニーニ氏は、「フィレンツェの怪物」と呼ばれた事件を担当していた。男女カップルを拳銃で襲い、女性器を切り取るという連続殺人事件(1968 年から198 5年までに16人を殺した)で、この猟奇的事件が解決出来ずにいた(現在も未解決である)。そして、この事件を独自調査してノン・フィクションの本を書き、出版しようとした記者を、公務妨害で抑えようとしたのも、この人である。

ラファエレのところでマリファナを吸ったこともあるだろうが、このミンニーニ氏の指揮の元、厳しい尋問では、多くの誘導尋問があった模様である。但し、尋問をヴィデオに収録することは無かったので、作られた調書の内、どれが強制自白によるのかは藪の中である。尋問中に押収された携帯も調べられたが、その中に11月1日の夜8時頃、バイト先のボスのルムンバ氏への返信で、”See you later(あとでね)”とテキストを送った理由を、犯行の打ち合わせであろうと言われ、違うと否認すると、怒鳴られ、頭を殴られる、など、20歳そこそこの言葉も充分でない女性にはかなり厳しい取調べだったことは容易に想像がつく。(警察は否認。)アマンダは、4日目には長時間の調べでフラフラになり、警察の言うとおり、ルムンバ氏がメレディスを殺害した時に、台所で(メレディスの叫び声を聞かないように)耳を塞いでいた、という調書にサインした。だが、朦朧とした状態でサインをしたものの、翌日には、「昨日の供述が真実であるとは思えません。私への扱いについても、警察の方もストレスが多いのでご苦労されているのは判ります。」と、なんとも育ちの良さというか、世間知らずというか、必死の反論を試みている。

アマンダがサインした調書を基に、警察は、11月6日に、アマンダ、ラファエレ、ルムンバの3名を正式逮捕に踏み切った。ところが、ルムンバ氏にはアリバイを証明する数多くの証人が現れた為、11月20日には、ルムンバ氏は釈放となる。ルムンバ氏にしてみれば、とんだトバっちりで、その為、仕事は失う、街の噂で生活は壊れる、と、アマンダに対し、讒言と名誉毀損の訴訟を起こした。

同時期、メレディスの部屋の犯行現場からは、多くの指紋や、血痕、靴の痕、大便等から、ルディ・グイドという若者(一階に住んでいた若者の一人の知り合いで、メレディスともアマンダとも顔見知りであった)が割り出された。当時20歳のルディは、コンゴで生まれたのだが、両親が離婚して5歳の時に父親とペルジアへ渡ってきた。父親は、ルディが16歳の時コンゴに戻ってしまい、当時父と一緒に住んでいた内縁の女性に預けられたが、ルディと折り合いが悪く、ルディは追い出された。可哀想に思った先生が、ペルジア一の大富豪に話をし、ルディは、その富豪の家で暮らすことになった。だが、一年後には富豪の家からも追いだされてしまう。短期間に天と地ほどの差のある生活を経験したのが、この若者にどのように作用したのか。

一時はミラノの伯母のところにいたが、その後ペルジアに戻ってきたが、2007年の9月には、ペルジアのバーで強盗を働き10月には弁護士事務所や養護施設で窃盗。警察の厄介は多かった。11月20日頃は、ルディはペルジアを離れてドイツにいたが、ペルジアに戻る列車で、無賃乗車が見つかり、ペルジア警察に引き渡された。丁度メレディス事件の現場から得られたDNAがルディのDNAと一致した頃である。

普通に考えれば、現場検証から、多くの証拠が出てくれば、ルディが窓を割って、鍵を開け、中に入って物色し、休日で誰もいないと思いトイレに入ったら、家に戻ったメレディスに気がつき、水を流せずにメレディスに襲い掛かって強姦し(体内から検出したDNAで判定)、抵抗されたのでナイフでメッタ刺しにしてしまい(死因は出血多量)、300ユーロと2枚のクレジット・カードを盗みペルジアを出てドイツに行った、という筋書きが見えてくるのではないだろうか。これまでにも警察はルディがプチ・ナイフを振り回しているのを知っている。

ところが、何故か、ペルジア警察は、アマンダとラファエレをまたしてもルディに絡ませて、今度はルムンバの代わりにルディとの三人の犯行とした。
何故、警察・検察は、アマンダに拘ったのだろうか?警官・検察官の心理は解すべくも無いが、アマンダという若くて綺麗でいながら、自分の人生を自分で切り拓いていく為には他国に身を置くことも辞さない現代のアメリカ女性が、14世紀の初めに創設されたペルジア大学のある街のもつ雰囲気・文化・慣習とは、相容れなかったということだろうか?ルムンバで凝りもせず、警察は、今度は、ルディを交えて、4人で乱交パーティーをしようとしたが、メレディスが承知しなかったので3人が共同してメレディスを殺害した、或いは、黒ミサのようなカルトの儀式の末、或いは、メレディスの300ユーロがアマンダには必要だった、等々、その想像力は、一般常識を遥かに超えている。最後には「動機ずけは関係ないのです」とミンニーニ氏は法廷で述べている。「証拠がそれ自体物を言う」と、自信満々。だが、フィレンツェの通り魔といい、ペルジアのメレディス事件といい、検察側が、「予見」に振り回されたことはないのか?

こうした背景の中で2008年12月4日の判決では、アマンダは26年、ラファエレは25年の有罪判決となったのである。ルディはといえば、当初は殺人の主犯で30年の判決であったのを、警察の筋書きに併せてアマンダとラファエレの役柄を決める「協力」で、裁判にも掛けられず、司法取引に似た形で14年短縮した懲役16年で結審。後日ルディは刑務所の中で、アマンダ達は関係ないのだがね、と仲間には話したというが。span>

アマンダの罪 1―事件のあらまし 

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写真はジュリアーノ・ミンニーニ検事とアマンダ・ノックス、撮影は:Giuseppe BelliniGetty

アマンダの罪 ― 1.事件のあらまし

アマンダ・ノックスという名前が私の注意を引いたのは、彼女の二回目の陪審団の審議が最終に掛かる今月の始め頃だった。普段テレビを観ないのでネットでのニュースで若くてブルック・シールドばりの美人学生が4年前、イタリアで殺人事件に巻き込まれた事件だ位しか知らなかったのだ。

ヴィデオでは、若い女性がイタリア語で、陪審団に最後の訴えをしている画面で、英語の訳が出てきた。「私は殺していません。私は性的暴力を揮っていません。私は盗んでいません。私はそこにいなかった。」という全否認の数々。事件を知らずに見ていた私は、この最後の「私はそこにいなかった」が引っかかった。殺人犯人とされながら、それは無いだろうと――。

そして、この二回目の陪審団の結論は、アマンダも、ボーイフレンド(共犯者とされていた)のラファエレ・ソレシートも、逆転無罪となった。一体何が起こったのか?

****** 
20歳のアマンダがシアトル大学の留学生としてペルジア大学に来たのは、2007年だった。同じ頃、英国からもペルジア大学に来ていたメレディス・カーチャー(当時21歳)と会ったのは賃貸した部屋の隣部屋の住人としてである。

2007年8月にイタリア女性二名が一軒家の2階を借りた。4部屋あるので、それぞれ一部屋に入り、9月にメレディスが入居し、最後に残った一部屋を借りたのがアマンダだった。又貸しである。間取りでみると、アマンダの部屋が一番小さい。(写真でみると、市の北側にあるその家は斜面に沿って立てられ、道路から入ったところが二階となり、坂道を降りたところが一階となっている。一軒家を複数が借りるのは学生や独身者の間では稀では無い。賃貸広告もそのように謳っている。)階下には、4人の男性が同じように間借りしていたという。その内の一人とメレディスは交際を始めたところだった。

2007年11月1日は休日で(全聖人の日、アメリカではハロウィーンの翌日である)、イタリア人の女性二人は実家に行き留守だった。アマンダは、アルバイトでバーで働くことになっていたのだが、この日バーのボスのルムンバ氏(コンゴからきた男性)から8時頃、携帯が入り、今日はあまりお客も無いだろうから来なくていいよ、という連絡を受けた。それに対して、アマンダはイタリア語で「See you later(じゃまたね)Good night(おやすみ)」とテキストで返している。(このSee you laterが後で問題とされる。)バイトが無くなったアマンダは、一週間前にコンサートで出会ったラファエレの家に行った。8時半頃、ラファエレの友人が彼のアパートに行った時、アマンダがドアに出てきたと証言している。そしてアマンダとラファエレは、マリファナを吸ってハイになった。(その為、後の記憶が曖昧になったことも後日不利になった。)

同じ日、メレディスは英国人の友人宅で4人で夕食をし、その後、友人の一人ソフィーと一緒に友人宅を去り、9時頃ソフィーとも別れて家に戻った。

アマンダがシャワーを浴びようと家に帰ったのは11月2日の朝である。家に帰ったアマンダは、家のドアが開けっ放しで、メレディスと共同のシャワー室に血痕があったのに不審を抱いた。そしてシャワーを浴びてから、もう一つ別の風呂場のトイレに大便が残ったまま流されていないのに気がついた。また、隣のイタリア女性フィロミーナの部屋の窓ガラスが割れているのに気がつき、強盗かもしれないと思った。更にメレディスの部屋には鍵が掛かっていた。アマンダは、ラファエレの家に戻り、メレディスの携帯に電話をしてみたが、誰も返答しなかった。幾度も掛けたが無駄であった。メレディスは、英国の母親が病気の為、携帯を常に身につけていたので、これは異常なことだ。アマンダはフィロミーナに電話をして事情を伝えた。

アマンダは、米国の母親にも電話をした。シアトルの母は警察に連絡しなさいとアドバイス。ラファエレは、警察で働いている妹に連絡し、112(日本の110番)に二度連絡を入れた。開放しの家のドア、血痕、破れた窓ガラス、鍵の掛かった隣室、電話に出ない隣人。誰が考えても尋常ではない。

この連絡で、警察が現地に行く前に、アマンダの家の近所の人から、庭で携帯が鳴ったので拾ったという連絡を貰ったという郵政局の調査員も家に集まった。メレディスは2個の携帯を持っていたが、もう一つは後日、やはり近所の家の庭に捨てられていたという。

1時半頃にはアマンダの連絡で、フィロミーナも友人3人を連れて家に戻った。メレディスの部屋のドアの鍵が無いので蹴破って開けたのはその後である。メレディスは半裸で布団の下に血まみれになって、40以上の刺傷と喉を切られて横たわっていた。更に後日、現金300ユーロとクレジットカード2枚も失くなっていたことが判った。

以上が事件のあらましである。
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