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今もなお解けないアレッポ写本のミステリー 2 

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館長

今年の1月、イスラエルのジャーナリスト、イィファット・アーリックが、マーリヴ紙とマコー・リション紙という新聞に私の疑念を追った調査記事を載せた。彼女は、ベン・ズヴィ研究所の前館長であったベナヤフに焦点をあてた。小部屋に隠された白骨を嗅ぎ回っているもう一人の新手の記者を前にして、研究所は、私には見せてくれなかったファイルのいくつかを彼女に見せたという。だが、ベナヤフ自身に関するファイルは見せなかった。研究所の言い分は、「内輪のメモ」とか、個人情報の漏洩になるようなものは、法律上、一切見せる必要はないというものだった。これは2012年5月に発行されたエディオット・アーロノット誌の記事で、紹介された別のジャーナリストが私の本に関連して調査し、確認した「消失した原稿や写本について、ベン・ズヴィ研究所と1970年に研究所を辞めた職員との間におこった(歯に絹着せていえば)重大な確執について、”この件についても研究所は真っ正直だったとは言えない。「辞めた職員」とは、ベナヤフで、彼は、実際研究所の創立館長で、当時のただ一人の管理人でもあったのだから。”と述べている。

ジョセフ・ハッカー氏は、私やアーリック記者に、前館長に向けられた疑惑について隠さず述べると約束してくれた学者で、前館長が去った時に持ち出したと思われる書籍・原稿のリストをみせてくれた。このリストは、アーリックや私が探していたものである(今でも現存すれば、だが)。しかしながら、このリストは一般公開はされていない。ハッカー氏は、アーリックに、自分は1960年代に稀刊本の一冊について調べていたのだが、数年後、ベナヤフ氏に、その写本は、実際には自分の蔵書で、研究目的でも見せてはいないのだ、と言われたと語った。研究所の所蔵書籍と館長の所蔵品の境は曖昧だったのは、明らかだったと。

アーリック記者はイスラエル国家古文書庫について極めて貴重な情報を得た(ベンズヴィ研究所が彼女の行動を規制できない限りにおいて)ことと、1970年頃に起きた研究所を巡る贈賄スキャンダルの詳細(大統領のみならず、ゴルダ・メーヤー首相も検察庁トップも巻き込んだ)では、リポーターのメモによれば、研究所館長ベナヤフは、彼の辞任を勧告した側に対し、公の機関ベンズヴィは、ベナヤフ個人の個人資産である、即ち研究所所蔵の写本原稿等は、彼の所有物であると法廷に訴えた。彼女のルポによれば、職を解かれた後、ベナヤフは許可なく研究所に入館し、新館長が鍵を変えた時は、鍵を壊して侵入し、その後は入館を防ぐ為にガードマンが雇われたという。

1970年の9月には、国の査察官の数えでは、ベンズヴィ図書館には8000冊の書籍と1992の古文書ぺージが存在したという。だが、ベナヤフが管理していた間、カタログ化されたのはその半分のみだったという。つまり、研究所に存在した書籍と紛失した書籍の全容は分からないということだ。

私同様アーリックは写本については、誰が犯人だとは、言っていない。ベナヤフと消えた写本をつなぐ証拠も無い。(1980年の半ば頃、エルサレムで、写本のぺージをバラして売っていたと噂されたディーラーは、その後まもなくホテルの一室で不審死をとげたが、ベナヤフの知人で、死ぬ少し前に会っていたとされるが、ヘブライ語の古書の世界は狭く、ディーラーも、、もお互いに知己であるので、事実は興味を引くが、それだけで有罪とすることはでき無い。)アーリックも1958年1月の末に、写本がベンズヴィ研究所と所長の手元に届く以前に写本の大きな部分が欠けていた、という情報や証拠は入手できなかった。ずっと後になって、200枚欠けていたことが分かったのだ。

トラー部分の紛失については、見逃すことができないし、世界で最も重要なユダヤ教の聖典の部分がアレッポ騒擾と写本がイスラエルに到着するまでの10年間、それを運搬した「学のある」ユダヤ人によって紛失したという記録は、どこにも無い。「どこにも記録が無い」写本が研究所に届けられる前は。紛失が明らかになるのはベナヤフの管理下である。

アーリックの論文は、写本紛失の探偵達によって新しく追加された新情報を加えている。写本がイスラエルに着いた時、最初にそれが手渡されたのは、イスラエル入国管理局長、シュロモ・ザルマン・シュラガイ氏の部署であった。入国管理局は、1958年1月に、写本を2週間ほど手元に置いた後、研究所に手渡した。従って、シュラガイ氏の証言は重要だ。教育を受けた人であったから、シュラガイ氏であれば、写本のぺージが多量に減っていれば、すぐ気づいたであろう。もし、既に欠落していたのであれば、ベンズヴィ研究所は、無実である。だが、もしもシュラガイ氏が見た時には欠落がなかったのであれば、ベンズヴィ研究所が紛失の責任を負う。

だが、シュラガイ氏は、何の証言も残していない。あるいは私も含めてアレッポ写本の探偵達は、それを見つけることができなかった。私は、それはどこかに存在していると信じている。証言では、どこかに存在している。だが今は、写本の「聖杯探し」である。

ただ、幸いシュラガイ氏の証言を聞いた人はいる。1993年にシュラガイ氏の死の直前に書き留められたものだ。元モサドの諜報員でイスラエルで放映されたTVドキュメンタリーの為に写本の調査を担当したラフィ・サットン氏である。サットン氏によれば、シュラガイ氏は、写本は、ほぼ完璧な状態で届いた、とのことであった。シュラガイ氏によれば、最後に見た後に、ぺージが減った、すなわち、ベンズヴィ研究所で。

私は、ラフィを良く知っており、信頼でき、記憶力も抜群だと思っているが、この情報は、私の本には含まなかった。何故なら、この会話を記録に残さなかったし、当時メモに書き留めることもしなかった。だが、私の本が出版されるや、内輪の「アレッポ写本地下組織」の組織長を務めるエズラ・カッシンが、シュラガイ氏の長男のオヴァディアをの所在を見つけた。オヴァディアは、シュラガイ氏が写本を持ち帰った1958年の夜、家にいた。彼は写本を見たのだ。ほんの数ぺージ以外は、トラーも写本のほとんどが、しっかり纏められていたという。この情報は、何年も前に、シュラガイ氏がそれに先立つ何年も前に当時の諜報員サットン氏が話した通りである。カッシンは、会話をテープに記録していた。

アーリックはこの新しい情報を新聞のルポ記事に追加した。これで、写本の紛失原因として、ベンズヴィ研究所に焦点を絞ることが出来る。一方、研究所は、写本が届いた時すでに消失部分があったという証拠を出すことはできなかった。その為研究所としては、のらりくらりとかわしながら、低姿勢を崩さず外部の興味と疑惑の関心が薄れるまで時間稼ぎをすることになった。(このアプローチは、政治家や軍組織の情報隠匿に似てはいるが、学問的歴史学に使用するには、あまり有効な手段では無い。)

ベンズヴィ研究所、ヘブライ大学、イスラエル博物館の3機関が合同して写本会議をするという企ては、今年、研究所側から、何ら新しい発見は無く議論すべき争点も無いから、という理由で、突然、一方的にキャンセルされ、学者・研究所を驚かせた。研究所の現館長であるメイア・バル・アッシャー教授にこの突然のキャンセルと、今月私から提出した質問点のリストについて連絡を取ると、研究所は、各界の学者達と協議したが、会議を開くに値する新しい点が無いので、という答えだった。私は、少なくとも写本の権威2名(バリラン大学のヨーセフ・オファー教授とヘブライ大学のラファエル・ゼル教授)は、会議を開く希望があり、キャンセルには反対であると話し、反対している教授の名前を尋ねた。(果たしてそうした教授がいるのかどうか、会議では研究所に焦点が当てられるのを危惧して、また、困った事態を避ける為ではないのかどうか?)館長教授は黙して語らなかった。

私の本の出版前に、私はベナヤフ氏の家族に、質問状を出したのだが、それに対し、ベナヤフ家から長い回答説明の書簡を受け取り、それを、私は本の一部に加えた。だが、その後、家族からは、一切の連絡が絶たれた。そして、アーリック記者が回答を求める文書を送ったところ、大層な反撃を受けた。家族は、今回は、家族の名誉はおろか、家族の蒐集資産が脅かされつつある、と、気づいたのだろう。

家族とのミーティングでは、とアーリック記者は語った、彼女は、チャナン・ベナヤフ(元館長の長男で現在はコレクションを管理している)のみならず、モッシェ・ニッシム(館長の弟で、前財務大臣で大きな法律事務所を経営している)、別の高名な弁護士が家族の依頼で出席、PRのプロが家族を援護、こうした人達が彼女と対峙した。アーリックは居心地の悪い会議をすべてテープに収めた。アーリック、編集者、出版社への論文出版撤回などの脅しは成功しなかった。ルポは今年の1月17日に出版された。アーリック記者のルポは、事実とは全く関係無い、と家族は返した。ルポの中身は、安っぽいゴシップ、作り話、小説、名誉毀損の集合である。馬鹿げた作り話、悪意と嫉妬に満ちた嘘と陰謀説の集大成である、と。攻撃は、アーリックの結論が無名の読者からの情報であると非難していた。実際には、主な情報源は、私の記事同様明らかにされていた。実際、ベンズヴィ研究所自体が、いやいやながら、事実を認めていたのである。

ベンズヴィ研究所の学者、歴史家達は、彼らの立場上アーリック記者には、典型的に逃げに回った回答をし、「盗み」には言及しなかったが、自分達のコレクションは、ここ40年は(言い換えれば、ベナヤフが辞めて以後は)、スムーズに増加していったという持って回った言い方で、自分たちの立場を正当化し、イスラエルの情報開示法の文言を盾に、全関連書類を開示することなくおさめた。

私が今月提出した質問について、現在の所長のバール・アシャー氏は、「研究所は、なにも隠してはいません」と強くいった。それに対して、私はむしろ研究所が、過去実際に写本・古文書を秘密裏に保管していたと認め、そうした行為は今後しないと政策変更すると発表する予定はありますかと、聞いた。所長はそれには答えなかった。そこで、私は、研究所はアレッポ写本について過去横領や疑惑は、一切なかったと断言出来るのか、またもしそうではないのなら、過去の調査を始め、事実を世に公表解明すべきではないのか、研究所は、個人経営ではなく学者組織として公的資金の提供を受け、東部ユダヤ教の文化資産を正しく記録し、後世に伝えるべきではないのか、と問うた。教授は無言のままだった。

シルヴェラ原稿

2010年に、私の本の為リサーチをするのでNYに居る間、私はセントラル・パーク近くのアレッポ・シナゴーグでモーリス・シルヴェラという人に会った。シルヴェラ氏は1961年に彼の父親がベンズヴィ研究所に贈与した貴重写本の部分の受領書二枚を見せてくれた。一つはベンズヴィ自身の署名があり、もう一つはベナヤフの署名であった。氏は、これが写本回復の一助になれば、と語った。

私は、この受領書をエルサレムに持ち帰り調べた結果、どちらも研究所には存在しなかった。だが、受領書を見せられて、研究所に30年近く勤務し資料保管の任務を果たしてきたズヴィ・ザメレット氏は、ベナヤフの名前のもと、数ダースの書類・写本が収められている、と明言した。二通の受領書とザメレット氏の証言を得て、今回初めて、私は、この事実を公に出来たのである。

私がシルヴェラ氏に報告すると、氏の家族は、イスラエルの法律事務所に連絡し、家族の寄贈写本の存在について、研究所に正式説明を要求した。研究所の学者達が学究的探索やリサーチを口実に回答するどころか、調べを遅らせていることが分かり、家族は、弁護士事務所に指示し、国家監査院に連絡した。(ベンズヴィ研究所は国家組織として、国家予算を得ているので、監査を拒否でき無い。)

ところが研究所は姑息な法的手段を取った。つまり、1969年に組織編成があり、それまでの研究所は、新組織のヤド・ベンズヴィに吸収された為、以前の研究所と同じではない。名前は同じであっても、それまでの研究所とは異なる組織であるため、旧組織が行ったあるいは行わなかったことについて、新組織は責任を負わない、と。更に、シルヴェラ原稿なるものを探したが、見つからなかった、と。監査院は、この説明を受け入れ、調査は打ち切りとなった。シルヴェラ家の弁護士、ヤロン・ガーバーは私に説明しながら、「この件で明らかなのは、国家官僚の不正はいつまでも正せない、ということですね。」と言った。「ユダヤ社会の貴重な歴史文献の紛失をきちんと説明できないのは、おおいなる国家の損失です。」と。

研究所の学者・弁護士は、こうしたまやかしで、国民の財産を不正に個人の財産とすることが国民にとってどれほど政府への失望と批判を醸成するのかについて思いを馳せることがあるかどうかは別として、1958年に研究所に収められた写本が同じ研究所の管理下にそのまま置かれることに国民の疑惑が生じた場合のことは、おそらく念頭にもないと思われる。もし1969年以降のベンズヴィ研究所が、それ以前の研究所とは違うというのであれば、現在の研究所は、紛失した写本について、何の権利も無いのであり、アレッポ写本の所有者であるという誇りも無いのだから。

口は災いのもと

今年の5月にフラットブッシュ(NY)のアレッポ・シナゴーグで、話をする機会があった。その地域では出版された私の本を巡って、エネルギッシュな議論が交わされたにも拘らず、本を出版して2年たってからの初会合である。地域のアレッポ出身者の人々の中には、明らかにこの件の詳細について厭う傾向があるがそれは理解できる。読者の殆んどにとっては登場人物の一人にすぎなくても、地域のあるグループの人にとっては、知己であったり、親戚だったりする。外部の人間がこの話を公にすることを喜ばない人たちもいるのだ。

会合の日取りが決まった後も、招待自体を拒否するグループもあると、主催者側も気づいたが、シナゴーグは、キャンセルを拒んだ。その地域の知り合いから聞いたところによれば、強く否定的なのは、アレッポのユダヤ人ではなく、ベナヤフの家族だったという。ベナヤフ一家はシリアよりもイラクの出身でイスラエルと外国ではセファー族系の司教であったベナヤフの父イッザック・ニッシム師の名声で知られていた。

私が到着する少し前に、NYのセファー族社会の指導者であるシモン・アルーフ師が私の本を強く非難し、講演には参加しないよう指令した。(アルーフ師はブルックリンにあるエジプトのシナゴーグの長でもある。)師は、この指令は私の本を読んだ後の宗教上の教義指令であるとした。指令は、4ページに渡る美辞麗句に満ちたヘブライ語で書かれ聖書やタルムードの参照も多く、私は悪意をもって正義の人の名誉を毀損したと書いている(ベナヤフ氏の死後は、名前も明らかにしないで非難しているが)。コミュニティーの人々にとっては、単に私の話を聞かないだけでなく、私がコミュニティーを訪れることも阻止し、私の舌の根を射抜くこと(これはエレミア書9:8章から)が大事だ、と述べている。

ジャーナリストの論文とは違って、この種の宗教的司令には、全開示は必要ない。アルーフ師は読者に、彼自身とベナヤフ氏家族とが個人的に親しいということも明らかにせず、また、そうした事実を一般の人は誰も知らないだろうと考えたのかも知れない。2012年の一月、同師はチャナン・ベナヤフ(元館長の息子で、現在は、ベナヤフ家所蔵文庫の責任者)が編纂した祈祷書を高く推奨している。出版された推薦文では、師はチャナン・ベナヤフ氏に好意的な絶賛の言葉を「友」に送っている。

私は、ラビとベナヤフ家の両方に文書で、宗教上の指令をもコントロールしているのですか、と、質問状を出した。どちらも、回答無しである。シナゴーグでの講義には、真面目に興味を持っている人々が参加した。

写本の将来

エズラ・カッシン氏は、テルアビブの郊外のホロンに住んでいるアレッポ出身者のイスラエル人であり、現在の写本の調査に常に大きな関心をよせてきている。カッシン氏は、正式な国家の調査で、全記録や資料を召喚し、事実を解明すべきだと考えている。この目的で、クネセット(イスラエル議会)のメンバーと、私や、他のアレッポ写本地下組織も含んだいくつかのミーティングを開いてきた。彼ほど熱心に取り組んできた人はいないが、イスラエル・ベィテニュ党の党員、デーヴィッド・ローテム氏は、イスラエル版C−スパン(インターネット・ニュース)で記録された通り、議会で私の本のヘブライ語版を取り上げた。(私が彼の注意を引いたとは言えない。ローテム氏は、セル・フォーンをチェックしていただけかもしれない。)

ローテム氏によれば、写本は、アレッポのユダヤ人社会に帰属させるべきである、との意見である。現在の法的処置、つまり1962年からベンズヴィ研究所に管理を任せてきたことだが、これをくつがえすには、二つの根拠がある、という。まず第一に、1969年以後管理をしてきたと主張する研究所の申し立ては、写本がイスラエルに到着してから10年も後の話であること。第二にカッシン氏、私や他の記者のコンピューターに収められた記録をみれば、最初の法的処理が誤っていたことを実証している。私が今回明らかにした文書は、その内の一つだが、他にも多くある、と。

カッシン氏のプランによれば、イスラエルや外国に数多あるアレッポ出身者社会の合同委員会が、写本の擁護委員会となって、写本を護っていく。例年一度は集会を実施し、また、この委員会が、出来れば国家レベルの委員会とともに(あるいは民間レベルでも)紛失した写本のページの行方をさがす。もとモサドの一員だったラフィ・サットン氏の知己には、引退後退屈していそうな、前諜報官も数名いるだろう。

カッシン氏の意見では、写本は、エルサレムのイスラエル博物館に収められるべきだという。ただし、現在のように、地下の写本秘匿室にクムラン写本(死海の書)と一緒に収めるべきではない。(死海の書の陰になってしまうから。)むしろ隣室に、聖書収納室を作りそこに聖書完全版として保管さるべきである。アレッポの大寺院に6世紀の間保管されていたのと同様の状態で。再建されたシナゴーグの建物は、ユダヤ教の失われた共同社会の最重要モニュメントとして復活させ、同時にそこで日常のシナゴーグの活動も回復できるだろうと。

写本の欠落部分はこれまで同様シナゴーグに保管され、過去同様、預言者エリアの名の元に収められる。おそらく、いつの日にか、紛失した部分も、ここで元通りに一緒に集められて。

「アレッポ写本は博物館の死せる文化遺産ではありません。」と、カッシン氏は、最近私にそう言った。「写本は再び活けるコミュニティーの活ける心臓となるのです。無論アレッポの社会のですが、広い意味では世界のユダヤの民の心臓に。」(完)

訳者の一言 さいごに

2010年の末頃から、トムソン・ネットに厚かましくも「宮平順子ライブラリー」などと大それた枠をお借りし、リスク管理を大枠として(とはこじつけで)、旅行記、記事の翻訳、米国事情など、思いつくままに、駄文を書き込んできました。

寄る年波とはよく言ったもので、70を越えて年波も波高が高くなり、気力・体力に目に見える衰えを感じてきました。ここらで、馬脚(はとっくの昔に現れていますが)に本体が取られない内に幕引きをすることも大事なのではないか、という気がするのも、老いの知恵かもしれません。

これまで、毎月一回のブログを続けてこれたのも、トムソン・ネットの皆様の励ましと、ご好意によってでした。この場を借りて、今までの温かなご支援を深くお礼申し上げます。ひとまず、ブログは、これで閉めることとしたく存じます。今まで本当に有難うございました。(宮平順子拝)

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